Thursday, 27 February 2025

NSWのゴルフルート

 そのゴルフだが、INSIDEGOLFという雑誌の表紙を松山英樹選手が飾っていた。1月のハワイのカパルアで行われたPGAツアーで優勝した記事だった。35アンダーのコースレコードも出した彼だったが、やはり同胞の活躍を海外で知るのは誇らしい。

早速読んでみたが、中々オーストラリア特有の記事が面白かった。例えば南ア、ベトナム、ポルトガルなど、各国のゴルフ場を巡るツアーであった。日本もその例外でなく、8日間で横浜CCや大洗など5か所でのプレーが入っていた。夜は居酒屋で和牛や魚を堪能し、一人8450ドルというから85万円とまあまあの値段だった。

人気なのはタイのホアヒンでの13日コース、こちらは1955ドルの20万円弱と安った。何故かメンズオンリーなのが気になったが、ピンクのお揃いのシャツに身を包んだ大勢のゴルファーが参加していた。

その他、グッズ販売の中に多かったのが個人の電動カートである。メンバーになると倶楽部の倉庫に置いてくれるので、いちいち借りる必要もない。歩く人にはリモコンの付いたバギーもあった。一度使って見たが、上り坂でこれがあると楽だった。

ゴルフ場は都市の近くに点在する。大きな都市になればなるほど、その数は多くなる。結婚式やパーティーなどの会場を兼ねている。ただ大都市になると移動も大変なので、中くらいのブリスベンやパースが最適と思っている。

ただこの雑誌に、メルボルンとシドニーの間、ニューサウスウェールズ(NSW)の海岸線900㎞に多くのゴルフ場が点在しているのも分かった。滞在型もいいが、いつか試してみたいルートになった。

Monday, 24 February 2025

オーストラリアの物価

 オーストラリアの物価だが、やはり昨今の円安もあって日本からの旅行者にとっては高い。例えばハンバーガーのマック、Big Macは日本だと480円だが、オーストラリアは7.9ドルなので@100円換算で790円と約1.6倍である。

ただ一般的な実感はそれ以上である。例えば店で飲むビールは、5年前の2020年で1パイントは6ドルだった。為替は@80円弱だったので日本円で500円もしなかった。処が今では13ドルである。価格は2倍になり、更に円安の@100円で一杯1300円になっている。

背景には経済格差、特に賃金があるようだ。日本でも賃金アップが叫ばれて久しいが、時給は日本だと1200円ちょっとだが、オーストラリアの最低時給は28ドルになったので、換算2800円と約2.3倍の差がある。

たたその例外がゴルフである。一般的なパブリックのゴルフ場だと一人35〜40ドル程度だから、今の為替でも4000円程度である。日本のゴルフ場だと安くても12000円するから、1/3〜1/4程度で済む。またコンセッションと称する年金生活者への割引制度を使うと更に安くなる。パース郊外の立派な18Hのコースでこれを使うと17ドル(1700円)で廻れた。オーストラリア人の所得は元来高いから、彼らの感覚ではワンラウンド1000円程度かも知れない。

そのゴルフ場だが、どこに行っても親切でおおらかにプレー出来る。一応予約は入れて行くが、空いているから到着順で随時スタート出来る。カンガルーや色とりどりの鳥は愛嬌があるし、終わってからクラブハウスで飲むクラフトビールが何とも美味しい。1パイントならアルコールも基準値以下なので帰りの運転に心配ない。皆さん実に楽しそうに19Hを堪能しているのがとても心良い。

不思議なのは男性は男同士、女性は女子会みたいに別々が多い。普段の真面目な生活ぶりのお国柄、ココだけが息抜きな場所かと思った。

どこのゴルフ場も広いからOBは殆どなく、ドライバーを思い切って振れるのがいい。日本のチマチマしたコースに慣れていると、この解放感は大きい。おおらかな国民性もその辺が原点になっているのがよく分かる。

Saturday, 22 February 2025

豪州のtransportable offence

パースの郊外、フリマントルに刑務所跡がある。今では使われていないが、1800年半ばには1万人程の囚人が収容されていた。当時のオーストラリアは流刑の地、「19人の囚人」という指名手配の写真まで付いたワインも売っている位だから、囚人は国のシンボルである。

オーストラリアに来た囚人は16万人、本国のイギリスとアイルランドから送られてきた。イギリスは産業革命で都市に人口が集中し犯罪が多発し、アイルランドはジャガイモ飢饉で荒廃していた頃だった。

当初イギリスの犯罪者はアメリカ大陸に送られたが、合衆国が独立してからオーストラリアに変更になった。犯罪者といってもその殆どはスリ、窃盗、家宅侵入、偽造といった軽犯罪者であった。勿論殺人やレイプといった重犯罪者もいたので処刑場もあった。犯罪者の7人に1人は女性だった。殆どがスリなどだったが、何故か売春婦は対象外だった。

驚く事に先の刑務所のホームページには、収監されていた囚人の実名をリスト化し公表していた。氏名、生年月日、結婚の有無と子供の数、職業、犯罪歴、刑期等々、そんな事をして子孫は大丈夫なのかと心配になった。

刑期は窃盗だと3〜10年、殺傷は15年、放火が14年、レイプが10年、強盗が15年と様々である。ただ本国から船で地球の裏側のオーストラリアに辿り着くと、(神の)試練を乗り越えたと減刑されたのである。英語でTransportable offenceという措置で、如何にもキリスト教の国らしい計らいだった。「人は罪を犯すが神によって赦される」のであった。ただ売春(婦)だけは例外だった。売春だけは神が許さなかったようだ。

釈放された囚人は社会に出て、今のオーストラリアの礎になって活躍した。20年位前の調査で、オーストラリア人の5人に1人は先祖に囚人の血を惹く人々と分かった。事実Wikiには、罪を崇めて社会で名を馳せた人のリストも載せて名誉回復を図っている。

Friday, 21 February 2025

フリマントルの高射砲

西オーストラリアの首都パースの近郊に、フリマントル(Fremantle)という綺麗な港町がある。サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフに似て、大きな倉庫を改造した地ビールの店が立ち並ぶ観光地である。

フリマントルは日本の南極観測船の出発港でもある。隊員は日本から飛行機でパースまで行き、ここで越冬に必要な食料を調達して船に乗り込む。

かつてその町は、連合軍の最大の潜水艦造船基地でもあった。インド洋の防波堤として、地理的に優れていたからだった。その防衛に多くの高射砲が設置され、(今では殆ど撤去されたが)その名残が残っていると聞き見に行った。

地下要塞を兼ねた基地は1942年に建設が開始され、1944年に完成した。1942年といえば日本がミッドウェー海戦で敗れた頃、以後制海権はどんどん北に押し戻され、完成した頃にはサイパンを失っていた。だからここ迄飛行機が飛んでくる事もなく、一度も実戦がないまま終戦を迎えたのであった。

ただ日本軍への恐怖は想像以上で、例えば1944年に今のインドネシアのチモールから一人の日本人が八ミリを持ってやって来たのを、上陸の前兆と警戒した。事実当時、日本政府発行の豪ドル紙幣まで作っていたから猶更であった。

説明してくれたオーストラリア人の係員は、此方が日本人だと分かると、暫し黙ってしまった。その沈黙がとても長く感じられ、早くここから逃げたくなった。

以前、クーランガッタというゴールドコーストの丘に夕陽を見に行った時も、さり気なく海に向かった公園のフェンスに、日本軍によって沈められた多くの船の碑が掛かっていてドキッとした。オーストラリアの人は陽気で人がいいだけに、「大変な事をしてしまった」と時代を超えて負い目を感じるのであった。

Thursday, 20 February 2025

イラン人への憎悪

イスラエルとハマスの人質解放が進んでいる。いい事だが両者の対立は、これからも永遠に続くと思うと喜んでばかりはいられない。そのハマスの背後にはイランがいるという。

イランには行った事もないしイラン人も知らない。ただ何となく、特に革命後のイランは核開発や過激なイメージがある。唯一知っているのは映画「アルゴ」である。アメリカ人が脱出するストーリーだが、鋭い目つきと攻撃的な話し方のイラン兵士は、何か狂信的で怖ろしかった。

そのイラン人だが最近、身近に感じる出来事に遭遇した。それは旅先のアパートであった。

夜になると隣の部屋から大きな男の話し声が聞こえて来た。太い声で一方的に淀みなく、しかもアラブ語の抑揚は今まで聞いた事のないイントネーションで不快だった。言っている事は分からなかったが、誰かを攻撃的しているようだった。

話していた相手は分かれた元妻か?将又会社のもめ事だろうか?色々と想像した。電話は真夜中の12時を過ぎても続き、結局その晩は殆ど寝付けなかった。

流石に頭にきたので翌日その男にクレームした。彼は「俺の名前はモハード、イラニアンだ!」と握手を求めてきた。事情を話すと「ケンカしていた訳はない!」と釈明した。ただまた数日して同じことを繰り返し始めた。

その内、もうこれ以上クレームするのも無駄かと諦めた。するとその我慢は、段々内なる憎悪に変わって行くのであった。

日本に来る中国人も大声で話すし、国際空港でやはり大声で話すのは殆どインドと中東系である。世界は経済でフラット化しても、風習はそう簡単に変わらない。戦争もこうした些細な違和感の積み重ねがベースになっている、それがよく分かる。

その後、家主を通じて男の会社に連絡を入れて貰った。男は石油関係の仕事で来たスポットの契約社員だった。彼は夕方になると庭でタバコも吸っていた。結局それが決定的になり、アパートの禁煙ルールに抵触し暫くして退去になった。