Saturday, 22 February 2025

豪州のtransportable offence

パースの郊外、フリマントルに刑務所跡がある。今では使われていないが、1800年半ばには1万人程の囚人が収容されていた。当時のオーストラリアは流刑の地、「19人の囚人」という指名手配の写真まで付いたワインも売っている位だから、囚人は国のシンボルである。

オーストラリアに来た囚人は16万人、本国のイギリスとアイルランドから送られてきた。イギリスは産業革命で都市に人口が集中し犯罪が多発し、アイルランドはジャガイモ飢饉で荒廃していた頃だった。

当初イギリスの犯罪者はアメリカ大陸に送られたが、合衆国が独立してからオーストラリアに変更になった。犯罪者といってもその殆どはスリ、窃盗、家宅侵入、偽造といった軽犯罪者であった。勿論殺人やレイプといった重犯罪者もいたので処刑場もあった。犯罪者の7人に1人は女性だった。殆どがスリなどだったが、何故か売春婦は対象外だった。

驚く事に先の刑務所のホームページには、収監されていた囚人の実名をリスト化し公表していた。氏名、生年月日、結婚の有無と子供の数、職業、犯罪歴、刑期等々、そんな事をして子孫大丈夫なのかと心配になった。

刑期は窃盗だと3〜10年、殺傷は15年、放火が14年、レイプが10年、強盗が15年と様々である。ただ本国から船で地球の裏側のオーストラリアに辿り着くと、(神の)試練を乗り越えたと減刑されたのである。英語でTransportable offenceという措置で、如何にもキリスト教の国らしい計らいだった。「人は罪を犯すが神によって赦される」のであった。ただ売春(婦)だけは例外だった。売春だけは神が許さなかったようだ。

釈放された囚人は社会に出て、今のオーストラリアの礎になって活躍した。20年位前の調査で、オーストラリア人の5人に1人は先祖に囚人の血を惹く人々と分かった。事実Wikiには、罪を崇めて社会で名を馳せた人のリストも載せて名誉回復を図っている。

オーストラリアの第二の国歌と言われるワルティング・マチルダが愛される理由も、その辺の事情にあるのかも知れない。

Friday, 21 February 2025

フリマントルの高射砲

西オーストラリアの首都パースの近郊に、フリマントル(Fremantle)という綺麗な港町がある。サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフに似て、大きな倉庫を改造した地ビールの店が立ち並ぶ観光地である。

フリマントルは日本の南極観測船の出発港でもある。隊員は日本から飛行機でパースまで行き、ここで越冬に必要な食料を調達して船に乗り込む。

かつてその町は、連合軍の最大の潜水艦造船基地でもあった。インド洋の防波堤として、地理的に優れていたからだった。その防衛に多くの高射砲が設置され、(今では殆ど撤去されたが)その名残が残っていると聞き見に行った。

地下要塞を兼ねた基地は1942年に建設が開始され、1944年に完成した。1942年といえば日本がミッドウェー海戦で敗れた頃、以後制海権はどんどん北に押し戻され、完成した頃にはサイパンを失っていた。だからここ迄飛行機が飛んでくる事もなく、一度も実戦がないまま終戦を迎えたのであった。

ただ日本軍への恐怖は想像以上で、例えば1944年に今のインドネシアのチモールから一人の日本人が八ミリを持ってやって来たのを、上陸の前兆と警戒した。事実当時、日本政府発行の豪ドル紙幣まで作っていたから猶更であった。

説明してくれたオーストラリア人の係員は、此方が日本人だと分かると、暫し黙ってしまった。その沈黙がとても長く感じられ、早くここから逃げたくなった。

以前、クーランガッタというゴールドコーストの丘に夕陽を見に行った時も、さり気なく海に向かった公園のフェンスに、日本軍によって沈められた多くの船の碑が掛かっていてドキッとした。オーストラリアの人は陽気で人がいいだけに、「大変な事をしてしまった」と時代を超えて負い目を感じるのであった。

Thursday, 20 February 2025

イラン人への憎悪

イスラエルとハマスの人質解放が進んでいる。いい事だが両者の対立は、これからも永遠に続くと思うと喜んでばかりはいられない。そのハマスの背後にはイランがいるという。

イランには行った事もないしイラン人も知らない。ただ何となく、特に革命後のイランは核開発や過激なイメージがある。唯一知っているのは映画「アルゴ」である。アメリカ人が脱出するストーリーだが、鋭い目つきと攻撃的な話し方のイラン兵士は、何か狂信的で怖ろしかった。

そのイラン人だが最近、身近に感じる出来事に遭遇した。それは旅先のアパートであった。

夜になると隣の部屋から大きな男の話し声が聞こえて来た。太い声で一方的に淀みなく、しかもアラブ語の抑揚は今まで聞いた事のないイントネーションで不快だった。言っている事は分からなかったが、誰かを攻撃的しているようだった。

話していた相手は分かれた元妻か?将又会社のもめ事だろうか?色々と想像した。電話は真夜中の12時を過ぎても続き、結局その晩は殆ど寝付けなかった。

流石に頭にきたので翌日その男にクレームした。彼は「俺の名前はモハード、イラニアンだ!」と握手を求めてきた。事情を話すと「ケンカしていた訳はない!」と釈明した。ただまた数日して同じことを繰り返し始めた。

その内、もうこれ以上クレームするのも無駄かと諦めた。するとその我慢は、段々内なる憎悪に変わって行くのであった。

日本に来る中国人も大声で話すし、国際空港でやはり大声で話すのは殆どインドと中東系である。世界は経済でフラット化しても、風習はそう簡単に変わらない。戦争もこうした些細な違和感の積み重ねがベースになっている、それがよく分かる。

その後、家主を通じて男の会社に連絡を入れて貰った。男は石油関係の仕事で来たスポットの契約社員だった。彼は夕方になると庭でタバコも吸っていた。結局それが決定的になり、アパートの禁煙ルールに抵触し暫くして退去になった。