Saturday, 11 January 2025

アランの話

ロシアの戦争が長引いて、既に死傷者は80万人を超えたという。戦闘員だけでなく不審死も多い。記憶に新しいのはワグネルのプリゴジン氏や反体制のナワリヌイ氏である。その他にも財閥の長や軍の要職もいた。

 ロシアのこうした政敵を葬る風土はいつから来たのだろう?思い当たるのはスターリン時代の大粛清である。その数1000万人とロシア革命の時の皇帝派もそうだったが、そんな殺戮が無ければ今のロシアの人口は2億人を超していたかと思う。

一方で不思議なのはそれを支持する国民も多いという事実である。情報操作もあるだろうが、今のプーチン時代もそうだし、その保守的な国民性は自身にとって謎である。

ロシアには今まで行った事も無ければ、話したロシア人もいない。ただ昔の本や映画、少しの体験を通じて興味は尽きないのである。真っ先に出て来たのが旧知のアランであった。

昔パリで一緒に仕事をしていたポーランド移民の末裔である。名前はアラン・〇〇スキーと言って、ポーランドからフランスに逃れてきた4代目、金髪に青い目をした大人しい人だった。 

彼の曾祖父はポーランドの農民だった。当時のポーランドはロシアの支配下にあり、そのロシアもクリミア戦争に敗れて国は疲弊を極めていた。取り分け土地を持たない農民(農奴)の生活は困窮し、各地で蜂起や反乱が頻発した。 

 ポーランドもその例外でなく、1863年1月に大規模な反乱が起きた。政府は取り締まりと弾圧を行い、その結果7000人近い農奴が難を逃れてフランスに亡命したのであった。彼の曾祖父もその一人であった。

 アランは寡黙な人で多くを語らず、勿論そんな先祖の話なんかした事はなかった。今ではひっそりと緑多いパリ郊外に住んでいた。ただ彼の仕事場はパリ中心地だったのに、ある時「家族は今まで一度もパリの都会には出た事がない」と聞いて驚いた。100年以上経っても、未だに目立たない生活を余儀なくされていたのかも知れない。

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