Saturday, 21 December 2024

チャイナドレスの襟

モンゴル観光には、ゲルと呼ばれるテント体験が入っていた。実際に住んでいる農牧民のゲルに呼ばれると、奥さんが羊と野菜、うどんを炒めた昼食を作ってくれた。

 狭い空間に家族が同居するスタイルは、とても日本のアパートの比ではないが、中は思った以上に暖かく快適だった。部屋の真ん中に石炭ストーブがあり、左右にベットが一つずつ、あとは汲み水と簡素な洗い場、祭壇があった。

そんな彼らが着ていたのがモンゴル服だった。映画で見た中国服に似て、縦長で厚い生地の下にズボンを履いていた。学ランのような立った襟は乗馬の風除けという。

宮脇淳子さんの「満州国の真実」によれば、体にピッタリしたチャイナドレスに襟が付いているはその名残と言う。チャイナドレスは天津の居留地にいた英国人の仕立て屋が、女性の足が綺麗に見えるようにスリットを入れて加工したのが始まりという。そう言えばベトナムのアオザイも襟が付いていた。ただこちらは普段着としてズボンは残していた。

 服に纏わる話は面白い。何かの本に書いてあったが、軍服の袖を飾るボタンは、ナポレオンがロシア遠征の時に、兵士が袖で鼻水を拭かせないために付けたのが始まりとか。やはり軍服のカーキも、インドに駐在していた英国軍が、白から目立たないようにヒンズー語の「土埃」を意味する茶色にしたのが起源とか。

ジーンズのデニムも、フランスのニーム(Nimes)市が語源である。「ニームの織物(Serge de Nimes)」が転じて、現在の「デ・ニーム(de Nimes)」になった。ジーンズの発祥はてっきりアメリカと思っていたので、意外だった。

Friday, 20 December 2024

VIVANTとウランバートル

昔あるラジオ番組で、森繁久弥さんが「モンゴルの夜空には満天の星が降り注ぐ!」みたいな話をしていた。その後すっかり忘れていたが、最近何かの拍子で思い出し、星の綺麗なこの季節、思い切って行ってみる事にした。

日本から首都のウランバートルまで飛行機で5時間、着くとマイナス15度、夜になると30度の極寒地であった。吐く息が直ぐに凍ってしまい、10分もすると眉毛は白くなった。

ただ市内は「ゲル」と呼ばれるテントから出るスモッグで汚れていた。ウランバートルは盆地なので、空気の流れが悪いのが原因らしい。星を拝むのは到底無理だった。

着いて最初に驚いたのは、凍結した道路で走る日本車の多さであった。中でも3台に2台はトヨタ車であった。人気の秘密はその耐久性という。一晩中外に出しておいても、エンジンが一発で掛かるのはトヨタだけという。殆どが日本から持ってきた中古車だった。 

 ネオンが灯るビルに、力士の日馬富士の名前があった。今では一貫教育の学校を経営していた。朝青龍もサーカスや不動産を買収し銀行まで持っていた。日本で活躍した人が、こうして第二の人生を母国で頑張るのはいい事だ。でも銀行となると、やや胡散臭い気もした。

そんなモンゴルの怪しげな金融事情をテーマにしたのが、暫く前にTBSの日曜劇場で放映された「VIVANT」である。堺雅人や阿部寛がインテリジェンスや公安に扮して大活躍していた。二転三転するストーリーは中々の出来である。原作は「半沢直樹」の福澤克維氏、国際的にも十分通用する出来は、諭吉の血かも知れない。 

撮影は広大なゴビ砂漠や市内のロケに4カ月を費やした。現地スタッフを含めると1000人が制作に携わった国家プロジェクトであった。今ではその撮影スポットが観光名所になっていた。 

日本から来る人に、猫ひろしもいた。夏に開催された高原マラソンで準優勝したようだ。彼はカンボジア国籍だから、わざわざビザを取ってやって来た。彼は名前に反して猫アレルギーというのも、笑いを誘っていた。

一緒に来たのが、アニマル浜口の物まね芸人だった。日本では無名の人だが、その名を「便座カバーよしえ」といった。芸はあの「気合だ!」一本である。モンゴルのトイレの便座には、取り外し可能なビニールカバーが付いているのに由来している。こういう処にはちょっと変わった人がいる。

Wednesday, 18 December 2024

ブリヤート人の脱出

ウクライナの戦争が始まって、多くのロシア人が国を脱出している。その数は65万人に達するという。受け入れ先はカザフスタンやセルビア、トルコなど、ロシアと国境を接するモンゴルもその一つであった。 

 逃げて来たのはブリヤート人(Buryatian)である。聞き慣れない民族の名前だが、バイカル湖の東南に位置するブリヤート共和国の人であった。人口は95万人、チベット仏教を信仰するモンゴル系の少数民族である。

ウクライナ戦争が始まった頃、そのブリヤート人の死亡率がモスクワの60倍もあったのが話題になった。北コーカサスやダゲスタン、シベリヤなどの少数民族同様、前線に送り込まれた数が多かったからだ。最近では北朝鮮軍の訓練所として使わせている場所でもある。

 モンゴルは過去三回の独立を宣言している。一回目は辛亥革命で清が倒れた時(1911年)、二回目はロシア革命でソ連が出来た時(1924年)、三回目はそのソ連が崩壊した時(1992年)である。いずれもロシアと中国の大国に挟まれた地理関係から生まれたものである。独立とは言え「めでたさも中ぐらい」なのはその為である。 

 辛うじて国として成立したのは、中国よりソ連に付いたからである。中国に残った地域は内モンゴル自治区になっている。ドイツが東西に、朝鮮が南北に分割されたのと同じである。 だから今でもロシアへの気遣いをしながら、この避難民の受け入れもこっそりやっている。

この9月にプーチンを受け入れ、ノモンハン事件の戦勝を祝ったのにもそんな事情だった。また2016年の国交樹立95年記念にロシアのラバロフ外相が来た時、彼はジーンズ姿でタラップを降りてきた。外交上の公式訪問ではあり得ない非礼だったが、モンゴル国民はロシアの侮蔑に耐えたのだった。

Monday, 16 December 2024

プーチンのモンゴル訪問

今年の9月、プーチンがモンゴルを訪れた。ノモンハン事件の85周年記念行事に参加する為だった。国際裁判所から逮捕令状が出ているので、受け入れ側も厳戒態勢で臨んだ。

 夏の終わりとは言え、首都のウランバートルは氷点下になろうとしていた。その寒い中、7機の軍用機で到着して真っ先に向かったのは、ザイサンの丘と呼ばれる戦勝記念碑だった。ソ連とモンゴルが共に戦って勝利した対日、対独戦のシンボルである。

ただ1939年のノモンハンの戦いは、日本・満洲軍が圧倒的な兵力不足で敗れたと言われていたが、ソ連の崩壊で被害は殆ど両者互角だった事が判明した。だからとても戦勝ではなかった。

 もう一つ、記念碑にはソ連時代から燃え続いた聖火があった。それがベルリンの壁崩壊で消されてしまい、今では土台だけが残っている。そこに献花したプーチンも滑稽だが、ウクライナとの戦時下で、そこまでして過去の絆を深めたいロシアの孤立が浮き彫りになった。 

 プーチンが次に向かったのは、ノモンハン事件の時の将軍ジェーコフの記念館だった。そこでも献花し、最後に広場での式典に参加した。未明に4時間遅れの飛行機でやって来て、本来ならば日帰りするのが常軌であった。ただ今回はあえてホテルに一泊する配慮を示し、関係の重視を強調したのだった。

皮肉なもので、モンゴル人が好きな国は今では日本である。実際JICAが支援するインフラや人材育成が成果を出しているし、観光客も韓国に次いで多いという。その点ロシアからはウクライナとの戦争で逃れて来る人も多く、感情的には真逆の中の訪問になった。

 余談だが、プーチンには影武者が三人いるという。話し方や仕草までそっくりらしいが、耳の形だけは整形出来ないので、見る人が見ると本人かどうか分かるらしい。モンゴルに来たプーチンは果たして本物だったのか、巷の噂になっている。

シリア難民の帰国

シリアのアサド政権が崩壊した。50年以上続いた独裁体制が終わり、難民の帰国が始まった。その数は600万人と言われる。シリアには行った事がないが、ソ連崩壊の時を思い出し、これから起きる事態を心配している。

 まず住居である。自分の家に帰ると、知らない人が住んでいる。50年も空けていると、占拠した方も殆ど自分の家だと思っている。特に世代が代わると、不法占拠してのは親の世代で、当事者意識がないから困ったものである。それが混乱に拍車をかけるのである。

2番目は仕事である。仕事に就くには前政権派を追い出さねばならない。これから熾烈なポスト争いが始まるのだろう。

バルト三国の場合は、公職に就くのにローカル語を条件に変更した。だからロシア語しか出来ないロシア人は、自ずと排除されたので分かり易かった。今回の場合、どうやって線引きをするのだろう。 

 3番目は追い出される側である。アサド一家は運よく亡命できたが、一般の人はそうは行かない。今度は自分たちが難民になる番である。パスポートの更新が出来ないと無国籍者になってしまう。実際バルト三国(特にラトビア)には、ネーションレスと呼ばれるロシア人が沢山いる。国を出る事も出来ず、ブラブラした生活に入るので、治安悪化の原因にもなる。 

 そして報復もあるだろうし、何より可哀そうなのはそこで生まれた二世三世である。親の世代は兎も角、自分達には責任がないのに非体制派になってしまうのが運命である。

日本も戦争に負けて、多くの兵士が国に引き揚げた。ただ帰ってみたら、「自分の家に他人が住んでいた」なんて事はなかった。改めてその国柄に感謝するのであるが、中東は本当に大変だ。

Saturday, 7 December 2024

サザンの「ピースとハイライト」

今週、韓国で戒厳令が出された。直ぐに解除されたとはいえ、北が攻めてきた訳でもないのにビックリした。常識では考えられない出来事に、やはり「これが韓国か!」と思った。 

 これからまた、あの反日的な国に逆戻ってしまうのだろうか?ユン・ソンニョル大統領は親日的だから、日韓がいい方向に向かっていた矢先だった。 先のムン・ジェインのような男が出てくれば、日韓関係は悪化するし朝鮮半島も不安定になるから心配だ。

戒厳令に失敗したとなると、彼はどうなるのだろうか?歴代大統領の末路は一様に悲惨だから気になる。

記憶に新しいのはパク・クネである。側近の公私混同で大した罪でもなかったのに罷免され服役した。その前のイ・ミョンバクは17年の刑で収監、その前のノ・ムヒョンは退任後に崖から飛び降りて自殺、キム・デジョンやキム・ヨンサムも自宅監禁後に子供が逮捕されたり、ノ・テウも17年の懲役だった。 

 今回の事件で、この夏に公開された映画「ソウルの春」と重ねた韓国人が多かったという。早速アマゾンで観てみたが、題名の民主化運動よりも全斗煥のクーデターを描いていた作品だった。確かに今でも北との戦争状態は継続中だし、38度線に行けばその緊張感が味わえる。平和ボケしている人にとっては、少し目が覚めたのかも知れない。

 韓国はよく「恨(ハン)」の国と言われる。長年に渡り下層に置かれた民族の不満が累積して、願望のはけ口がややもすれば「人を恨めば自身が楽になる」の意味である。その歪な国民性は今更どうしようもないが、隣国としては迷惑を掛けないで欲しいと願うばかりである。 

 サザンオールスターズの曲の中に、その隣国を歌った「ピースとハイライト」がある。個人的にはいい人なのに集団となると抗日になるのが韓国人、「なんでそうなっちゃうの?」の歌詞の件に、改めて「近くて遠い国」を感じるのである。

Tuesday, 3 December 2024

アンタルヤのロシア人

トルコにアンタルヤ(Antalya)というリゾート地がある。昔そこで会社の年次会議が披かれた。前年はタイのプーケットだったので、リゾートで親睦を図るには最適の地であった。私はその時行けなかったが、(行った人の話によると)ビーチには多くのロシア人が来ていたという。その時初めて知ったのだが、アンタルヤはロシアで最も人気のある夏の避寒地だった。

 ビーチで写っている写真を見ると、コート・ダ・ジュールやコスタ・デル・ソールなどの雰囲気とはちょっと違う大衆的な感じがした。かつてイタリアの大統領だったベルスコーニをモデルにした「Loro(欲望のイタリア)」という映画があった。舞台はサルデェニア島だったが、アンタルヤはその(少し破廉恥な)雰囲気が似ていた。

ロシアと接するエストニア国境に、ナルバ(Narva)という町もある。ここもバルト海の有名な避寒地だったが、今ではロシア人がいなくなったので空き家だらけである。そのナルバを有名にしたのが、スウェーデン王カール12世である。彼は最終的には負けてしまうのだったが、初期の頃にその地でロシア軍を破った。 

 ロシア(プーチン)はこの戦いを含め、過去にナポレオンと第二次大戦のドイツに三度侵略されている。そのトラウマがウクライナ侵攻の原点になった気がする。そしてロシアは元来夏でも寒い。その寒さが西側への憧れと、閉じ込められた被害者意識に繋がっている。 

 ウクライナは膠着が続いている。トランプに代わるので停戦の話も出ている。朝鮮のように非武装地帯を作るのだろうか?問題を先送りするだけだから止めた方がいいと思うが、これから冬の寒さも本格化するから心配だ。