Friday 30 August 2024

マルタ騎士団のルーツ

外国語に堪能な人の書いた文章は読んでいて心良い。生情報の臨場感が違う。最近そんな思いをした2冊の本があった。 

 一つは島村奈津さんの「シシリアの奇跡」である。シシリアマフィアを市民の立場から見た本で、良く情報収集をしていた。

マフィアと言えば、映画の「ゴッドファーザー」位しか知らなかったが、10年程前にコルレオーネ村を訪れてから興味を持っている。 

 マーロン・ブランド演じる主人公のヴィト・コルレオーネのモデルはLuciano Liggioという。彼は映画と違ってアメリカに渡った訳ではなかったが、コルレオーネ村の出身だった。

 彼の後継がリーナことSalvatore Riinaであった。彼はアンブロシアーノ銀行頭取のカルビを殺害したバチカン事件の主犯であった。ゴッドファーザーのPart IIでもこの場面が出てきたが、彼もやはりコルレオーネ村の出身だった。 

 本ではサレミ(Salemi)という村のマフィア博物館を紹介していた。実はこの夏、遥々車を走らせ辿り着いたものの、休館日で入る事が出来なかったので助かった。

もう一冊は塩野七生さんの「ロードス攻防記」である。土産物屋を廻りビーチでゴロゴロしていただけのロードス島だったが、改めて1522年の攻防を解説して貰えると、感慨も一入だった。

 例えば島の入り口に立っていた風車、それは北西風から船を守る為だったのだ。また島を守っていた騎士団、ロードス島を去ってからバルト海に移ったのがチュートン騎士団だったり、フランスに戻ったテンプル騎士団はフランス王に壊滅されたり、そしてマルタ島に行ったのがマルタ騎士団になったり。

彼らはマルタ島でまた築城を始めた。そして43年後の1565年に、押し寄せたトルコ軍の撃退に成功するのであった。町の名前のヴァレッタはロードス島から移った騎士で、ロードスの無念をマルタで晴らしたのであった。今では半分コンクリートだが、町全体を要塞化した風景を思い出しては、そのルーツに思いを馳せたのであった。

 ロードス島の高台には騎士団長の館があり、今でも立派な部屋が残っていた。たった600人の騎士で、10万人のトルコ兵相手に5ヶ月も踏ん張ったのは凄かった。騎士とは何か、少し分かったような気がした。

Monday 26 August 2024

べチャの時代

インドネシアの首都が、ジャカルタからジャワ島に移転する事になった。人口集中や地震リスクを回避するのが理由らしい。ただ完成するのは2045年と言うから、未だ紆余曲折がありそうだ。 

 思い出すのはマレーシアの新都市、プトラジャヤ(Putrajaya)とサイバージャヤ(Ciberjaya)である。プトラジャヤは行政の町、サイバージャヤはIT企業が集まる町である。20年程前に出来たばかりの町を見学した事があったが、どちらも殺風景な箱もので、加えて何とも言えな巨大なイスラム建築が少々気味悪かった。

率直に「こんな所に人が住むのだろうか?」と思った。東南アジアというと、ゴチャゴチャして人間臭いのが特徴である。密集した路地裏を三輪バイクが所狭しと走る、屋台やマッサージ店には人で溢れ、暑いからダラダラして、そんな凝縮文化が生命の源になっているからだ。

 ただ時間が経てば次第に、新旧のバランスも整うのかも知れない。いい例がオーストラリアのキャンベラやアメリカのワシントンDCである。特にワシントンDCは郊外に続く電車のアクセスもいいし、その先には緑に囲まれた住宅地やショッピング街が見事である。

 インドネシアは最初に行った東南アジアの国であった。当時は冷房がなかったし、宿泊場所では給仕が部屋まできて調理していた。移動はもっぱらべチャ(自転車タクシー)、勿論水でお腹をやられた。ただその親日的な国民性に一度で好きになってしまい、一時はここに骨を埋めてもいいと思った事もあった。あれから50年、懐かしさもあって気になっている。

Friday 23 August 2024

アラン・ドロンの死

先日、フランスの俳優だったアラン・ドロン(Alain Delon)が亡くなった。享年88歳、最後は子供たちに看取られて息を引き取ったという。

ただ女性遍歴も華やかだったので、その子供も離婚したナタリーの男の子と、その後にオランダ人との間に設けた男女の2名と分かれた。生前から子供達の中傷合戦もあったようだし、昨年まで身の世話をしていた日本人女性も存在もあった。彼女は結局子供たちに追い出されたが、恋多き人生と孤独な老後はセットのような気がしてならない。

 アラン・ドロンで思い出すのは、70年代に流行ったレナウンのCMである。ダーバンの背広を着て、あの有名なセリフ「D'urban, c'est l'elegance de l'homme moderne(ダーバン、それは現代を生きる男のエレガンス)」を吐いた。フランス語の意味が分からない人にも、そのインパクトは大きかった。

 因みに同じ頃流れたCMで、チャールズ・ブロンソンのマンダムや三船敏郎のサッポロビールがあった。高度成長期で男が化粧品を使い始めた頃だったり、キリン一極が揺らぐきっかけにもなった。就職面接で「男は黙ってサッポロビール」のキャッチフレーズを使った輩もいた。

 映画は「太陽がいっぱい(Plein Soleil)」しか記憶にない。完全犯罪かと思いきや、最後にヨットから死体が現れるオチは印象的だった。シシリーを舞台にした「山猫」や、「サムライ」「危険が一杯」など、これを機会にレンタルして偲びたい。

Saturday 17 August 2024

トロイ戦争とアキレス腱

今回ギリシャで訪れた遺跡の中で、最も古かったのはミケーネ(Mycenae)であった。BC16-14世紀と言われ、ドイツのシュリーマンが150年程前に発見した。ただ歩いてみても、素人には殆ど違いが分からなかった。

ところが最近、そのミケーネは「アキレス腱」と関係がある事と知ってから、グッと身近になった。アキレス腱は、ミケーネの勇者「アキレウスの急所」から来ていた。

彼は生まれた時、母親に不死の川で清められたが、母親が踵を持って浸けた為、その部分だけが不死にならなかったのだ。案の定、その踵を射られて命を落とす事になった。

それが「トロイの戦争」であった。改めてブラッド・ピット演じる映画「トロイ(Troy)」のDVDを見直して、初めてその流れが分かった。

物語は、トロイの王子がスパルタ(ミケーネ時代のギリシャ)の王妃を浚ったので、彼女を取り返す戦争であった。10万人の兵と1100隻の船でトロイ(今のトルコ)に押し寄せ、10年の歳月を経て、最後は有名な「トロイの木馬」で城内に入りスパルタが勝利した。

 ただアキレウスは兎も角、王妃を浚った王子は夫に比べて若いし、スパルタの大将は娘を生贄に差し出したので妻に殺されるなど、どちらかというとトロイに同情してしまう。その為か後に、トロイの末裔はローマの礎になる一方で、スパルタはローマに飲み込まれるのであった。

Thursday 15 August 2024

セーヌ川の下水処理場

オリンピックで「セーヌ川を泳ぐ」と聞いて驚いた。案の定、トライアスロンで泳いだ選手が体調不良を起こした。流れは早いし水量も多く、勿論衛生面の心配もあるから常識ではあり得なかった。

その代わりに夏になると、川沿いに巨大なプールが出現する。ヴァカンスに行けないパリ市民が、せめてもの涼を取る場所である。ただそこは有名なホモのたまり場でもあるので、避ける人も多いと聞く。

 そのセーヌ川の水質を管理しているのが、地下の下水処理場である。マルヌ橋の近くにある小さな階段を降りると、ゴーゴーという音と鼻に突く匂いが出迎えてくれる。昔から隠れたツアーとして有名だが、最近は博物館(Musee des Egouts de Paris)に格上げされていた。期間中にホームページを見たら、水泳の写真を掲載して安全性を強調していたが、終わると写真はなくなっていた。 

 パリの地下はこの下水道やかつては石切り場もあったので、巨大な空間が残っている。その距離は全長で2700kmと言われる。小説にもよく登場した。「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンが負傷したマリエスを担いで逃げたり、フレデリック・フォーサイスの「マンハッタンの怪人」では、オペラ座の地下を流れる水路を伝って脱出した。

 ただ気色悪いのは「カタコンベ」と称する地下納骨堂である。600万人もの骨が綺麗に積み重ねられ、薄暗い通路に沿って不気味な光を放っている。昔興味本位で覗いて見たが、ここだけは頼まれても二度と行きたくない。

Tuesday 13 August 2024

アポロンの聖木

連日熱戦が続いたオリンピックが終わった。オリンピック発祥の地を旅した後だけに、その古代オリンピックとの関係や由来が気になっている。早速ギリシャ神話の入門編を読むと、これが又面白かった。 

 例えばマラソン勝者が冠する月桂樹、ギリシャ語ではダプネ(Daphne)という。アポロンが恋した女性ダプネの名前から来ていた。彼女はアポロンの愛を拒み続けたので、月桂樹に変えられてしまった。以来忘れられないアポロンは、それを聖木として身に付けたという。だから男性ランナーならいいが、女性ランナーが貰うと霊が乗り移らないか心配になった。
アポロンは力強く容姿にも恵まれ、芸術センスもある理想像だったから、人々はそれに肖ろうとしたのだろう。因みに月桂樹は英語でLaurel、そう日産の車の名前である。今では誰でもおカネを出せば手に入れる事が出来る聖木なのであった!

 オリンピアの聖火も、火を守る女神ヘスティア(Hestia)から来ていた。「火を灯す限りへルティアが宿る」と、平和と幸福の象徴であった。オリンピアで聖火採火を司るのが全員女性というのも、ヘスティアに重ねたのだろう。 

 会場になったパリのシャンゼリゼ(Champ-Elysees)もあった。英語だとElysian Fieldsになる。そのElysian(エリュシオン)はギリシャ神話の冥界の「楽園」の名前であった。一方開会式の舞台になったエッフェル塔が立つChamp-de-MarsのMarsは「戦いの神」だった。そんな由来に肖って場所選定をしたのかも知れない。

 また紛らわしい呼び名もある。レスリングのグレコ・ローマン(Greco-Roman)なんて言葉を聞くと、文字通りギリシャ・ローマ時代を想像する。古代オリンピックの選手は全裸だったので、さぞかし凄まい光景かと思いきや、此方は1800年代にフランスで始まった余興の箔付け名称で、古代とは関係なかった。

Tuesday 6 August 2024

糸に針を通す国

旅をしていると地元の人の善意に助けられる事が多い。特に駐車のチケットの買い方が難しい。場所によって払い方も違うので都度地元の人に聞いて凌いだ。

特にTrapaniのタクシーの運転手さんには世話になった。小銭がないと分かると、近くの自販機まで連れて行ってくれ、パーキングスペースも空きが出ると仕事そっちのけで確保してくれたり、本当に助かった。

片言の日本を話す親日家も多かった。Aci Ciclopi遺跡の管理人は、此方が日本人だと分かると、「谷崎、川端、一茶、芭蕉・・・」と文人の名前を連発した。日本の寺で修行でもしたのだろうか?その日本の神秘に魅せられたようだった。

彼は静かに手を合わせ、息を吐く仕草をした。欧米人は一般的にビックリしたり感動した時に息を吸う。日本人は逆に吐くから、その違いに異文化を感じたのかも知れない。 

 そう言えばRafcadio Hearn (小泉八雲)も、日本の女が針に糸を通す仕草に驚いていた。欧米では糸に針を通すからだった。

彼は本質を射る流れも、欧米では外から内へ進むのに対し、日本人は内から外に拡散するなど、話し方を通じて違いを発見した。鋸は日本式が引いて切るのに対し、欧米式は押して切る話は有名だ。東西文化の違いは奥深い。

勿論悪い輩もいた。ホテルに泊まると市税が5%程が掛かり、ホテル代と一緒にカード決済する。

処がとあるホテルのマネージャーは3倍ほどを、それもキャッシュで吹っ掛けて来た。此方が「そんなに高いの?」と言うと、2倍に下げてきた。しかしそれでも訝っているとやっと正規にした。彼の小遣い稼ぎだったようが、こういう事があると旅が不快になる。

Sunday 4 August 2024

シシリーワインと海産料理

地中海に囲まれたシシリー島は食の宝庫である。取り分け海産類は豊かである。タコやイカのフライ、白身魚やエビのマリネなど、レモンをたっぷり掛けて食べる。勿論パスタやピザは本場だけあって何処に行っても美味しかった。

個人的には牛肉の入ったスパゲティボロネーが好きである。以前クロアチアやルーマニアを旅した時、昼は殆どこれに絞って食べ続けた。人から「よくそんなに飽きずに続くもんだね!」と冷やかされるが、当たり外れがなく国によって味の違いを楽しむのも悪くない。 

 食事に欠かせないのがワインとビールである。炎天下に汗だくになって遺跡を歩き、宿に帰ってシャワーを浴びて飲むビールは最高である。しかも行く先々で出て来るローカルビールは、旅の気分を一層高めてくれる。イタリア本土の玄関口にメッシーナという町があるが、町の名前を冠した黄色いラベルの地ビールや、遺跡のアグリジェント近くで作られたSeme doratoは記憶に残る一杯になった。 

 ワインも同じである。シシリーはワインの産地で、イタリア全体の17%程を作っている。岩山にオリーブやレモンの畑と並んで、こじんまりしたブドウ畑が続いている。その小規模多品種が何ともいい。

カターニャ郊外の海辺のレストランで、ワインリストを見て、店の主人に「地元のシシリーワインが飲みたいのだけど」と聞いてみた。すると「何言っているの?これ全部シシリー産だよ!」と言われて驚いた。その数は30〜40種類もあっただろうか、何気ない店なのに、シシリーの奥深さを実感したのであった。

 因みにシシリーワインの味は普通である。何故か白が赤に比べて多い。ギリシャワインがバルカン半島に有り勝ちな泥臭く甘い田舎風なのに対し、カラッとしている。

Thursday 1 August 2024

インディ(Indiana)とシラキューサ

旅の後半はシシリー島である。10年程前に一度行ったが、時間が止まったような島の魅力が忘れられず、再度訪れてみる事にした。例によってレンタカーを使い、前回は左回りだったので、今回は右回りで一周した。

特に前回素通りしてしまったシラキューサ(Siracusa)は感慨深かった。シラキューサは人口12万人の町、かつてはアテネより強いポリスだった。歴史に名を残したのが、第二次ポエニ戦争(BC214-212)であった。ローマ帝国相手にカルタゴと組んで戦い、最後は陥落した一戦である。 

 その様子をCGで再現したのが、昨年公開された映画「インディー・ジョーンズと運命のダイヤル(Indiana Jones and the Dial of Destine)」であった。映画の後半に出て来るシーンだが、タイムスリップした飛行機からDr.ジョーンズが見たのは正にその攻防戦であった。

 ローマは鉤縄付きの攻城塔で攻め、対するシラキューサはアルキメデスが発明した新兵器、例えば巨大な火の玉石を放つ投石器、船を吊り上げる鉤爪、太陽光で帆を焼く武器で3年も持ちこたえた。島の先端にある要塞跡に立ち、湾を前にそのCGを想い浮かべ、Dr.ジョーンズに肖って2400年前の感動に浸ったのであった。

カルタゴのアフリカ人は、その後島の西に追いやられた。その足跡を残すのがマルサーラ(Marsala)という食後酒で有名な町だった。町に入ると作りが単調な真四角の家が現れ、それはアフリカやアラブの風景だった。その町から北に行ったトラッパー二(Trapani)という町は、アフリカ行きの船の発着場であった。