Monday, 23 December 2024

トンカツの話

日本食が世界を魅了しているという。聊かクールジャパン戦略の前つば的な感じもするが、昔から寿司や天ぷらが好まれたのは事実だ。その後ラーメン、和牛、煎餅が続き、最近ではおにぎりが人気と言う。個人的には次はトンカツと思っている。

 箸でも切れる柔らかいポークは世界でも稀だし、食感のいい千切りキャベツと絶妙なソース、ご飯とみそ汁のバランスは何とも言えない。味は老舗のトンカツ専門店なら間違いないし、チェーン店のかつ屋やすき屋なども殆ど遜色ない。

ただトンカツは所詮ポーク、豚はイスラム教やユダヤ人は基本的に食べない食材だ。その辺が世界的な展開の障害になるかも知れない。

むかし出張で来た白人男性を、ランチでトンカツ屋に連れて行った事がある。彼は最初何も言わなかったが、箸を付ける段階になって「自分はユダヤ教だから食べない」と切り出されてビックリした事があった。

 浜本隆志氏「拷問と処刑の西洋史」の中に、中世スペインのユダヤ人狩りの話が出ていた。マラーノと呼ばれるキリスト教化したユダヤ人を見つけ出す話であった。

異端審問所は豚を食べなかった女に疑威を掛けた。彼女は「豚を食べなかったのは、ただ食べたくなかっただけです」と抵抗したが、ボックと呼ばれる木馬型拷問台に乗せられると、遂に「自分はユダヤ教徒です」と自白したという。いつぞや、ストックホルムの博物館でそのボックを見た事がある。鋭角の屋根に裸で座らせれると想像しただけで、背筋が寒くなった記憶がある。

 ただイスラム教徒でも酒を飲む人は多いし、トンカツもポークとは別物と考えて食べている人もいる気がするが・・・。

Sunday, 22 December 2024

満洲とノモンハン事件

日本からウランバートルへの飛行ルートは、ロシアと北朝鮮上空を避け、韓国から中国を経て入る。少し時間は掛かるが仕方がない。

 帰り道、窓から外を眺めていると、モンゴル共和国と内モンゴル自治区の国境線に沿って飛んでいるのが分かった。どちらも白い大地が延々と続くが、内モンゴル自治区は幾何学的な地形で、国境がはっきり識別されていた。

モンゴル共和国には300万人のモンゴル人が、内モンゴル自治区には2400万人の漢族が住んでいるという。しかし実際は殆ど人の住めない砂漠である。一体国境とは何なのか?況やその国境紛争とは何なのか?つくづく考えさせられた。

 その内モンゴル自治区は、嘗て満州国と呼ばれた。満州は日本が主導する五族協和で経済も大きく発展した。いつぞや偶然入った大阪の北新地で、老夫婦が営む居酒屋があった。店にはハルビン時代のアルバムが置いてあり、「自分たちの一番幸せな時でした」と語っていたのが象徴的だった。

その満州国に暗雲が射したのが1939年のノモンハン事件だった。場所は何処かのソ連国境かと思っていたが、今のモンゴル共和国の東端であった。 改めて半藤一利氏の「ノモンハンの夏」や五味川純平氏の「ノモンハン」を再読してみた。

「赤い夕陽に照らされて・・」の何処までも続く地平線、そんな石油や鉱物資源もない不毛の地で多くの人が亡くなった。関東軍の越境も、戦利品の地図が不正確だったのが原因という。 

 現地は今でも地雷や要塞跡が残っていると聞き、長春やチチハルの名前と共に、郷愁に誘われるのであった。

Saturday, 21 December 2024

チャイナドレスの襟

モンゴル観光には、ゲルと呼ばれるテント体験が入っていた。実際に住んでいる農牧民のゲルに呼ばれると、奥さんが羊と野菜、うどんを炒めた昼食を作ってくれた。

 狭い空間に家族が同居するスタイルは、とても日本のアパートの比ではないが、中は思った以上に暖かく快適だった。部屋の真ん中に石炭ストーブがあり、左右にベットが一つずつ、あとは汲み水と簡素な洗い場、祭壇があった。

そんな彼らが着ていたのがモンゴル服だった。映画で見た中国服に似て、縦長で厚い生地の下にズボンを履いていた。学ランのような立った襟は乗馬の風除けという。

宮脇淳子さんの「満州国の真実」によれば、体にピッタリしたチャイナドレスに襟が付いているはその名残と言う。チャイナドレスは天津の居留地にいた英国人の仕立て屋が、女性の足が綺麗に見えるようにスリットを入れて加工したのが始まりという。そう言えばベトナムのアオザイも襟が付いていた。ただこちらは普段着としてズボンは残していた。

 服に纏わる話は面白い。何かの本に書いてあったが、軍服の袖を飾るボタンは、ナポレオンがロシア遠征の時に、兵士が袖で鼻水を拭かせないために付けたのが始まりとか。やはり軍服のカーキも、インドに駐在していた英国軍が、白から目立たないようにヒンズー語の「土埃」を意味する茶色にしたのが起源とか。

ジーンズのデニムも、フランスのニーム(Nimes)市が語源である。「ニームの織物(Serge de Nimes)」が転じて、現在の「デ・ニーム(de Nimes)」になった。ジーンズの発祥はてっきりアメリカと思っていたので、意外だった。

Friday, 20 December 2024

VIVANTとウランバートル

昔あるラジオ番組で、森繁久弥さんが「モンゴルの夜空には満天の星が降り注ぐ!」みたいな話をしていた。その後すっかり忘れていたが、最近何かの拍子で思い出し、星の綺麗なこの季節、思い切って行ってみる事にした。

日本から首都のウランバートルまで飛行機で5時間、着くとマイナス15度、夜になると30度の極寒地であった。吐く息が直ぐに凍ってしまい、10分もすると眉毛は白くなった。

ただ市内は「ゲル」と呼ばれるテントから出るスモッグで汚れていた。ウランバートルは盆地なので、空気の流れが悪いのが原因らしい。星を拝むのは到底無理だった。

着いて最初に驚いたのは、凍結した道路で走る日本車の多さであった。中でも3台に2台はトヨタ車であった。人気の秘密はその耐久性という。一晩中外に出しておいても、エンジンが一発で掛かるのはトヨタだけという。殆どが日本から持ってきた中古車だった。 

 ネオンが灯るビルに、力士の日馬富士の名前があった。今では一貫教育の学校を経営していた。朝青龍もサーカスや不動産を買収し銀行まで持っていた。日本で活躍した人が、こうして第二の人生を母国で頑張るのはいい事だ。でも銀行となると、やや胡散臭い気もした。

そんなモンゴルの怪しげな金融事情をテーマにしたのが、暫く前にTBSの日曜劇場で放映された「VIVANT」である。堺雅人や阿部寛がインテリジェンスや公安に扮して大活躍していた。二転三転するストーリーは中々の出来である。原作は「半沢直樹」の福澤克維氏、国際的にも十分通用する出来は、諭吉の血かも知れない。 

撮影は広大なゴビ砂漠や市内のロケに4カ月を費やした。現地スタッフを含めると1000人が制作に携わった国家プロジェクトであった。今ではその撮影スポットが観光名所になっていた。 

日本から来る人に、猫ひろしもいた。夏に開催された高原マラソンで準優勝したようだ。彼はカンボジア国籍だから、わざわざビザを取ってやって来た。彼は名前に反して猫アレルギーというのも、笑いを誘っていた。

一緒に来たのが、アニマル浜口の物まね芸人だった。日本では無名の人だが、その名を「便座カバーよしえ」といった。芸はあの「気合だ!」一本である。モンゴルのトイレの便座には、取り外し可能なビニールカバーが付いているのに由来している。こういう処にはちょっと変わった人がいる。

Wednesday, 18 December 2024

ブリヤート人の脱出

ウクライナの戦争が始まって、多くのロシア人が国を脱出している。その数は65万人に達するという。受け入れ先はカザフスタンやセルビア、トルコなど、ロシアと国境を接するモンゴルもその一つであった。 

 逃げて来たのはブリヤート人(Buryatian)である。聞き慣れない民族の名前だが、バイカル湖の東南に位置するブリヤート共和国の人であった。人口は95万人、チベット仏教を信仰するモンゴル系の少数民族である。

ウクライナ戦争が始まった頃、そのブリヤート人の死亡率がモスクワの60倍もあったのが話題になった。北コーカサスやダゲスタン、シベリヤなどの少数民族同様、前線に送り込まれた数が多かったからだ。最近では北朝鮮軍の訓練所として使わせている場所でもある。

 モンゴルは過去三回の独立を宣言している。一回目は辛亥革命で清が倒れた時(1911年)、二回目はロシア革命でソ連が出来た時(1924年)、三回目はそのソ連が崩壊した時(1992年)である。いずれもロシアと中国の大国に挟まれた地理関係から生まれたものである。独立とは言え「めでたさも中ぐらい」なのはその為である。 

 辛うじて国として成立したのは、中国よりソ連に付いたからである。中国に残った地域は内モンゴル自治区になっている。ドイツが東西に、朝鮮が南北に分割されたのと同じである。 だから今でもロシアへの気遣いをしながら、この避難民の受け入れもこっそりやっている。

この9月にプーチンを受け入れ、ノモンハン事件の戦勝を祝ったのにもそんな事情だった。また2016年の国交樹立95年記念にロシアのラバロフ外相が来た時、彼はジーンズ姿でタラップを降りてきた。外交上の公式訪問ではあり得ない非礼だったが、モンゴル国民はロシアの侮蔑に耐えたのだった。

Monday, 16 December 2024

プーチンのモンゴル訪問

今年の9月、プーチンがモンゴルを訪れた。ノモンハン事件の85周年記念行事に参加する為だった。国際裁判所から逮捕令状が出ているので、受け入れ側も厳戒態勢で臨んだ。

 夏の終わりとは言え、首都のウランバートルは氷点下になろうとしていた。その寒い中、7機の軍用機で到着して真っ先に向かったのは、ザイサンの丘と呼ばれる戦勝記念碑だった。ソ連とモンゴルが共に戦って勝利した対日、対独戦のシンボルである。

ただ1939年のノモンハンの戦いは、日本・満洲軍が圧倒的な兵力不足で敗れたと言われていたが、ソ連の崩壊で被害は殆ど両者互角だった事が判明した。だからとても戦勝ではなかった。

 もう一つ、記念碑にはソ連時代から燃え続いた聖火があった。それがベルリンの壁崩壊で消されてしまい、今では土台だけが残っている。そこに献花したプーチンも滑稽だが、ウクライナとの戦時下で、そこまでして過去の絆を深めたいロシアの孤立が浮き彫りになった。 

 プーチンが次に向かったのは、ノモンハン事件の時の将軍ジェーコフの記念館だった。そこでも献花し、最後に広場での式典に参加した。未明に4時間遅れの飛行機でやって来て、本来ならば日帰りするのが常軌であった。ただ今回はあえてホテルに一泊する配慮を示し、関係の重視を強調したのだった。

皮肉なもので、モンゴル人が好きな国は今では日本である。実際JICAが支援するインフラや人材育成が成果を出しているし、観光客も韓国に次いで多いという。その点ロシアからはウクライナとの戦争で逃れて来る人も多く、感情的には真逆の中の訪問になった。

 余談だが、プーチンには影武者が三人いるという。話し方や仕草までそっくりらしいが、耳の形だけは整形出来ないので、見る人が見ると本人かどうか分かるらしい。モンゴルに来たプーチンは果たして本物だったのか、巷の噂になっている。

シリア難民の帰国

シリアのアサド政権が崩壊した。50年以上続いた独裁体制が終わり、難民の帰国が始まった。その数は600万人と言われる。シリアには行った事がないが、ソ連崩壊の時を思い出し、これから起きる事態を心配している。

 まず住居である。自分の家に帰ると、知らない人が住んでいる。50年も空けていると、占拠した方も殆ど自分の家だと思っている。特に世代が代わると、不法占拠してのは親の世代で、当事者意識がないから困ったものである。それが混乱に拍車をかけるのである。

2番目は仕事である。仕事に就くには前政権派を追い出さねばならない。これから熾烈なポスト争いが始まるのだろう。

バルト三国の場合は、公職に就くのにローカル語を条件に変更した。だからロシア語しか出来ないロシア人は、自ずと排除されたので分かり易かった。今回の場合、どうやって線引きをするのだろう。 

 3番目は追い出される側である。アサド一家は運よく亡命できたが、一般の人はそうは行かない。今度は自分たちが難民になる番である。パスポートの更新が出来ないと無国籍者になってしまう。実際バルト三国(特にラトビア)には、ネーションレスと呼ばれるロシア人が沢山いる。国を出る事も出来ず、ブラブラした生活に入るので、治安悪化の原因にもなる。 

 そして報復もあるだろうし、何より可哀そうなのはそこで生まれた二世三世である。親の世代は兎も角、自分達には責任がないのに非体制派になってしまうのが運命である。

日本も戦争に負けて、多くの兵士が国に引き揚げた。ただ帰ってみたら、「自分の家に他人が住んでいた」なんて事はなかった。改めてその国柄に感謝するのであるが、中東は本当に大変だ。

Saturday, 7 December 2024

サザンの「ピースとハイライト」

今週、韓国で戒厳令が出された。直ぐに解除されたとはいえ、北が攻めてきた訳でもないのにビックリした。常識では考えられない出来事に、やはり「これが韓国か!」と思った。 

 これからまた、あの反日的な国に逆戻ってしまうのだろうか?ユン・ソンニョル大統領は親日的だから、日韓がいい方向に向かっていた矢先だった。 先のムン・ジェインのような男が出てくれば、日韓関係は悪化するし朝鮮半島も不安定になるから心配だ。

戒厳令に失敗したとなると、彼はどうなるのだろうか?歴代大統領の末路は一様に悲惨だから気になる。

記憶に新しいのはパク・クネである。側近の公私混同で大した罪でもなかったのに罷免され服役した。その前のイ・ミョンバクは17年の刑で収監、その前のノ・ムヒョンは退任後に崖から飛び降りて自殺、キム・デジョンやキム・ヨンサムも自宅監禁後に子供が逮捕されたり、ノ・テウも17年の懲役だった。 

 今回の事件で、この夏に公開された映画「ソウルの春」と重ねた韓国人が多かったという。早速アマゾンで観てみたが、題名の民主化運動よりも全斗煥のクーデターを描いていた作品だった。確かに今でも北との戦争状態は継続中だし、38度線に行けばその緊張感が味わえる。平和ボケしている人にとっては、少し目が覚めたのかも知れない。

 韓国はよく「恨(ハン)」の国と言われる。長年に渡り下層に置かれた民族の不満が累積して、願望のはけ口がややもすれば「人を恨めば自身が楽になる」の意味である。その歪な国民性は今更どうしようもないが、隣国としては迷惑を掛けないで欲しいと願うばかりである。 

 サザンオールスターズの曲の中に、その隣国を歌った「ピースとハイライト」がある。個人的にはいい人なのに集団となると抗日になるのが韓国人、「なんでそうなっちゃうの?」の歌詞の件に、改めて「近くて遠い国」を感じるのである。

Tuesday, 3 December 2024

アンタルヤのロシア人

トルコにアンタルヤ(Antalya)というリゾート地がある。昔そこで会社の年次会議が披かれた。前年はタイのプーケットだったので、リゾートで親睦を図るには最適の地であった。私はその時行けなかったが、(行った人の話によると)ビーチには多くのロシア人が来ていたという。その時初めて知ったのだが、アンタルヤはロシアで最も人気のある夏の避寒地だった。

 ビーチで写っている写真を見ると、コート・ダ・ジュールやコスタ・デル・ソールなどの雰囲気とはちょっと違う大衆的な感じがした。かつてイタリアの大統領だったベルスコーニをモデルにした「Loro(欲望のイタリア)」という映画があった。舞台はサルデェニア島だったが、アンタルヤはその(少し破廉恥な)雰囲気が似ていた。

ロシアと接するエストニア国境に、ナルバ(Narva)という町もある。ここもバルト海の有名な避寒地だったが、今ではロシア人がいなくなったので空き家だらけである。そのナルバを有名にしたのが、スウェーデン王カール12世である。彼は最終的には負けてしまうのだったが、初期の頃にその地でロシア軍を破った。 

 ロシア(プーチン)はこの戦いを含め、過去にナポレオンと第二次大戦のドイツに三度侵略されている。そのトラウマがウクライナ侵攻の原点になった気がする。そしてロシアは元来夏でも寒い。その寒さが西側への憧れと、閉じ込められた被害者意識に繋がっている。 

 ウクライナは膠着が続いている。トランプに代わるので停戦の話も出ている。朝鮮のように非武装地帯を作るのだろうか?問題を先送りするだけだから止めた方がいいと思うが、これから冬の寒さも本格化するから心配だ。

Thursday, 28 November 2024

ビブグルマンのグルメ旅

先日、久しぶりに天ぷらの「つな八」に行った。昼を過ぎているというのに、結構な人で混んでいた。見ると年配客が多く、酒を飲みながら旬の揚げ物を楽しんでいた。つな八は今年で100周年という。戦時中も営業していたようで、その歴史が味に染み込んでいるようだった。

 美味しいものを食べると幸せな気分になる。ただ長年あえてグルメとは一線を画して来た。自分でもその理由がよく分からないが、食の欲望にはキリがないから、一度ハマると麻薬のように後戻りが出来ない恐怖が過ったのかも知れない。また食を追求すると、他の大事なことを忘れるのでは?という心配もあった。

ただ最近、もうそろそろそんな修業も終わりにしてもいいか?と思えてきた。歳のせいかも知れない。早速ミシュランガイドの「東京」を買ってみると、厳選された店が見事に整理されていて読み物としても面白かった。中でも気に入ったのが「ビブグルマン(Bib Gourmand)」と呼ばれるコスパ以上の満足が得られる店である。 

 イタリアンの元祖落合シェフの「La Bettola da Ochiai」、ラーメンの「こてつ」、フレンチの「Kinoshita」など片っ端から行ってみると、ミシュランの選定眼通りで美味かった。もう接待で行くようにゴージャスな星付きレストランは不要だから、これで十分である。 

 レストランに行くのには、もう一つ目的がある。それはアルバムのように旅を振り返るのである。東京には各国の店が多いから、居ながらにして海外旅行の気分に浸れる。渋谷のオーストラリア料理「Arossa」や銀座のギリシャ料理「Apollo」は本場以上だし、錦糸町のルーマニア「La Mihai」も面白い親父がやっていた。

 最後に、美味しいものをより美味しく味わう為に、家を出る前に軽くジョッグをしている。すると適度な疲労感と空腹感で、最初のビールがグッと違ってくる。

Tuesday, 26 November 2024

錦織選手の復活

嘗ては熱狂したテニスも、昨年フェデラーが引退し、今年はナダルも選手生活にピリオドを打った。ビック4のマレーもジョコビッチのコーチになるなど、往年の選手が次々と消えていくと、次第に関心も薄らでいる今日この頃である。

そんな中、錦織選手が復活を遂げているのは明るいニュースだ。チャレンジャーに勝って、来年のグランドスラムに出れる100位辺りまで上がって来た。もうピークを過ぎているのでどこまで頑張れるのか分からないが、現金なもので又テレビ中継が気になり始めている。 

 尤もグランドスラムとなると、2週間に渡り毎回5セットを戦い続けなくてはならない。そんな体力が彼にあるのか、一番知っているのは本人だろうが・・・。

年齢を重ねると体力の低下を痛感する。JOPと呼ばれる公式戦に出てみると、最近の4試合、ファーストセットは取ってもセカンドセットで息が上がり、最後のタイムブレークで逆転負けするケースが続いた。流石モチベーションも下がるし、「所詮勝負ごとには向いていない」が頭を過ぎる。 

強い人にはそれなりの訳がある。勿論酒やタバコはやらないし、朝晩のストレッチとジョギング、食生活も含めて生活の殆どをテニスにつぎ込んでいる。意外と体育の先生や日体大のOBなど運動系で来た人が多いのも特徴だ。スポーツ共有のツボを心得ているから、力の入らない反作用で打っている。

Thursday, 21 November 2024

知事選の復讐劇

兵庫知事選で前知事の斉藤氏が再選された。2カ月前に失職した時は四面楚歌、これで終わりかと思ったがまさか結末だった。SNSの力で終盤一挙に流れが変わったらしいが、フェイクニュースもあるしネットの世界は怖しい。

注目されるのは、今まで議会や市町村会で散々非難していた人たちである。「死んだと思っていた人が現れた」かのような顔が滑稽であった。この流れが続けば今度は自身の政治生命が危うくなってくる。ドラマの幕が切って落とされ、次は市町村長の選挙である。

(不謹慎かも知れないが)人はこうした復讐劇が大好きである。復讐をテーマにした作品は多い。代表的な小説はA.デュマの「モンテクリスト」である。無実の罪を着せられたダンテスがモンテクリスト伯爵になって戻って来る。自身を嵌めた政敵に対し、人知れずに復讐を果たす件は、何度読んでも痛快である。

日本なら差し詰め「忠臣蔵」だろう。最後の吉良邸討ち入りも然る事ながら、亡き殿の無念を果たす忠義と武士道は時代を超えて共感する。

吉村昭氏の「敵討」もあった。殺された父の仇を探しに日本国中を行脚する男の話である。最後は本懐を遂げるのだが、人生を仇討ち一本に絞る時代が凄かった。

映画では「ランボー」「ダーティーハリー」「レヴェナント」「ドラゴンタツゥ-の女」「ボーダーライン」・・・と思い出せばキリがない。復讐は東西共通のテーマである。

これから兵庫県民がどう出るか、机を叩いて批判していた市長さんもどうなるのか、SNSの世界だけに中々先が読めないが、暫くは目を離せない。

Monday, 18 November 2024

登山家の死

山と聞くと、真っ先に思い出すのは登山家の故山田昇氏である。若い頃、西武百貨店が主催する冬山教室に参加した事があった。二泊三日の合宿で、滑落防止やアイゼンの歩き方を教えてもらった。そこに当時日本を代表する世界的クライマーの山田さんが来ていた。

氏は当時8000m級の14座の内、9座を制覇した世界的クライマーだった。その時はそんな偉業も知らず、食事が終わると体験談を話してくれた。生死を彷徨った一流の人の話はとても面白く、特に頂上でのトイレの話は耳に残った。それから暫くして、McKinleyの冬山で逝ってしまった。

もう1人、身近にNさんと言う鉄人がいた。Nさんは植村直己氏のエベレスト遠征にも参加した本格派で、「青春を山にかけて」にも登場した人だった。40歳を過ぎて金融界に入り、仕事の方でも一流を証明してみせた。そのNさんが(山の事故ではなかったが)亡くなった時に、盛大なお別れ会が披かれた。 

山仲間や仕事関係の沢山の人が集まり、弔辞を読んだのは大会社の社長さんだった。一ツ橋山岳部の同僚だった。その時知ったのだが、一ツ橋山岳部のOBは大町に別荘を買うという。大町は白馬や槍ヶ岳への起点である。晩年はそこを拠点に仲間と山を満喫するらしい。聞いていて、その繋がりがとても羨ましく思えた。

最近、日本を代表するクライマーの平出和也さんと中島健郎さんが亡くなった。K2に登攀中に滑落したという。諏訪のローカルニュースで、生前の平出氏と家族とのビデオが紹介されていた。植村さんの時もそうだったが、奥さんのサバサバした感じが気になった。生死を共にしていたかのようで、その姿に打たれた。

Saturday, 16 November 2024

モンベルの話

今月の日経新聞「私の履歴書」は、モンベルの創業者の辰野勇氏である。モンベルのウェアーや靴は良く愛用していたが、その沿革は知らなかったので興味深く読ませて頂いている。

 氏は根っからの山男で、それが嵩じて今に至っているのが分かった。山男はプロの登山家や山岳ガイドになる人が多い中で、実業家の道を選んだ稀な人だった。山一筋の人生に、それもこうして未だに山登りを続けている体力と精神力に、敬意と羨望を寄せるのであった。
 
モンベルには時々行くが、何時も豊富な品揃えには感心させられる。特にウェアもいいが、シューズが安価で耐久性に優れているので気に入っている。今回その機能性が、氏の長年の体験が裏打ちしているかと分かり、これを契機にファンになった。

 まだ連載の半ばだが、高校生で始めた本格登山の西穂高が出てきた。今ではロープウェイで簡単に山小屋に行けるが、当時は足で登っていた。奥穂に向かうジャンダルムにも難儀したようで、私の遠いありし日を思い出した。 

 それは30歳前半の頃だったか、新穂高温泉からロープウェイで小屋に泊まり、翌朝奥穂を目指した歩き始めた時だった。折しもその日は朝から雨が降っていた。暫くすると雷が鳴り始めた。爆弾のような轟音が、しかも山だから下から突き上げて来た。

辺りには誰もいない。雷が至近距離で鳴り響く恐怖は、想像以上であった。途中に「天狗のコル」や「馬の背」と呼ばれる岩場があった。足も滑るし滑落の恐怖が過った。何日か前に、迂回して抱いていた岩ごと落ちた人の話も聞いていたから猶更だった。

 もうそんな高い山に登る事はないだろう。でもあの時行ったからこそ、少し氏に共感できたのかも知れない。

Monday, 11 November 2024

トランプと白人支持層

アメリカ大統領選挙が終わり、 トランプが再選を果たした。予想では接戦と出ていたが、終わってみれば圧勝だった。やはりバイデン時代に景気が滞った事や、有色のしかも女性の大統領には抵抗が強かったのかも知れない。

アメリカ政治については全くの素人だが、見ていて一つ思い出した事があった。それは白人の支持層、取り分け3年前の議事堂襲撃の時に、デモに参加した男たちである。 

 何年か前に首都ワシントンを訪れた時だった。時期は5月、それはメモリアルディー(戦没者追悼記念日)の日だった。第二次大戦やベトナム戦争、朝鮮戦争の記念碑には沢山の人が集まっていた。特に目を惹いたのは、ハーレーダビッドソンで来た白人の一行だった。 

 プロレスラーのような体格に立派な髭を蓄え、革ジャンに赤いバンダナとレイバンのサングラスが定番だった。全国から集まったのだろうか、街を埋め尽くす凄い数のライダーだった。勿論その人達と議事堂襲撃で乱入した人とは全く関係がないのだが、何故かその風貌が良く似ていた。 

暫く前に、「Mr ノーバディ(Nobody)」という映画もあった。普段は大人しい中年の白人が、チンピラ相手に正義を発揮する作品だった。クリント・イーストウッドの「許されざる者(Unforgiven)」も同じで、老齢のカーボーイが一人で悪に立ち向かう話だった。トランプの熱烈な支持層も、きっとそんな作品が好きなのだろう。

アメリカでは白人層が段々マイノリティーになりつつある。数だけでなく経済的にも弱者になろうとしている。その不満がトランプを熱烈に支持するのは良く分かる。

Wednesday, 6 November 2024

ラーメンは軟水

来日の外国人観光客に人気があるのが、日本の食である。寿司やラーメンは元より、天プラ、トンカツ、おにぎりと幅広い。確かに欧米のシンプルなメニューに比べると種類が豊富である。作り方も丁寧だし、特に出汁が絶妙なのだろう。

最近、その隠された秘密が分かった。それは軟水の力である。軟水は「水に含まれるカルシウムやマグネシウムの量が100mg/l以下の水」である。東京の場合は65mg/lだが、東北の福島、宮城、山形になると、更にその1/3程に下がる。軟水の数値が低い程、不純物がない透き通った水になる。

3年ほど前に福島方面に旅した時に、ラーメンがやたらに美味しいのにビックリした。有名な喜多方には行けなかったが、須賀川、郡山などのラーメン屋のスープの味はどれも素晴らしかった。理由はやはり水だったのだ。 

 逆に硬水の国では、水道水は余り飲まない方がいいと言われる。衛生面もあるが、カルシウムの摂取が多くなるからだ。「象足」という言葉がある。華奢で美しいパリジェンヌが歳を取ると、カルシウムが蓄積して足首が太くなる現象である。

 ミネラルウォーターで有名なエビアンは300mg/l、アメリカは30〜120だが、ブリスベンは140と硬水国の数値は高い。だから一度に沢山飲めない。ビールやジュースの瓶も日本に比べて小ぶりなのはその為、水の代わりにワインを飲むのも同じである。

 処で味の決め手が軟水の度数なら、東京の水でどんなに頑張っても限界がある事になる。この辺は、いつかレストランの専門家に聞いてみたいと思っている。

Thursday, 31 October 2024

五臓六腑

秋が深まりつつある。明日からもう11月で晩秋に入る。月日の経つのは本当に早い。昨年もそうだったが、今年の秋もまた暖冬らしい。気温が下がらないと紅葉の鮮度が落ちる。黄色から真赤にはならず、どす黒い赤で散ってしまう。残念だがこれも風物詩の世界、一年が長くなったと思って諦めている。

 寒くなると美味いのは燗酒である。息が白く成り始める頃、空き腹に流れ込む熱燗には都度覚醒させられる。忘れていた五感が呼び戻される。一日の冬支度の作業が終わり、疲れを癒す一杯に寒さが吹っ飛んでいく。

こんな文化は日本だけのような気がする。確かにヨーロッパにはワインを温めて飲む習慣もある。ただ冬のスキー場やクリスマスの露店市などに限られている。ワインへの敬意がそうさせるのか分からないが、多分暖かいワインは食事に合わないのだろう。 

また欧米の家屋は信じられないほど暖かい。部屋ではTシャツで過ごせる程、暖房が半端でない。あのロシアでもさえも、暖房費は無料と冬対策は完ぺきである。冷えたウォッカを飲めるのにも訳がある。クルマ文化に慣れた若い人なら、冬でもダウンとTシャツ二枚で過ごせるのは羨ましい限りである。

 一方日本の家屋は木造だから、夏は涼しいが冬は極めて寒い。だから日本酒の出番があり、夏の暑い日は冷酒、春夏の常温を経て熱燗とオールマイティーに対応しているのだろう。四季とシンクロした日本人の国民性も、この辺が原点になっている。

Tuesday, 29 October 2024

神宮外苑の再開発

神宮外苑の樹木伐採が始まった。再開発には反対が多かったので注目されている。長年親しんだ樹木にはヒトの思い出が詰まっている。だからその気持ちは痛い程分かる。

 暫く前だったか、近所で突然樹木の伐採が始まった事があった。ある日突然業者がやってきて工事が始まった。聞くと台風で一本の木が倒れたので、家主が「この際全部切ってしまおう!」と決めたという。そんな馬鹿な!と思ったが後の祭り、その数20本近くはあっただろうか、樹齢100年の高さにして10m程の木々が二日で無くなってしまった。

その時は本当にショックだった。他人の敷地とは言え、長年共にした風景が無くなるのはとても他人事ではなかった。木で家が崩壊しても保険でカバー出来るのに、同じ森を取り戻すには100年掛かるから・・・。

 神宮の野球場は六大学の思い出の場であったし、又戦前の学徒出陣式の舞台だった。テニス倶楽部にもお世話になった。20年程在籍しただろうか、学閥社閥が色濃く残っていた場所だった。ラグビー場も寒い日によく通った。それも無くなるのはとても寂しい。

今回の神宮開発は三井不動産がやっている。立派なデベロッパーだし、日本橋に代表される街作りにこれ以上の会社はないだろう。個人的には、ブランドショップで埋め尽くされたビル群は好きではないが、若い世代は満更ではないと聞く。10年もすれば新たな木も成長するだろうし、もうそれを見守るしかない。

 正に「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldiers never die but just fade away)」、後は若い人に任せるのがいい。

Tuesday, 22 October 2024

永濱さんの本

講談社新書の「エブリシング・バブルリスクの深層」が話題になっているというので読んでみた。著者はトルコ人のエコノミストと永濱利廣氏である。

世界は不動産バブル、EVバブル、暗号通貨バブルだから、いつ崩壊してもおかしくないという。ただ日本はバブってないから、むしろ伸びしろが大きいという。(本当かと思うが)これからインフレが始まり日経平均は30万円になるという。

 その理由として、①日経平均のPERは、16倍とダウの26倍に比べて低い事、②米中経済のブロック化により、世界はその地勢リスクを回避するために中国から撤退する。半導体の九州立地がいい例だが、日本はその受け皿になる、③日本企業が海外で稼ぐ力を付けて来た事等、を挙げていた。

 確かに株価は、ダウが30年前の1000ドルから今では4万ドルと40倍になったのに、日経平均は4万円を超えたとはいえ、やっとバブル時代の高値を取り戻したのに過ぎない。余りのギャップに大きな調整が入ってもおかしくない気もする。

春の賃上げ効果もそろそろ出始める頃だし、そう言えば景気循環に30年周期もあった。柏木雄介さんの「悲観するより楽観する方が難しい」の名言を思い出す。少し期待してもいいかも知れない。 

 ただ気になったのが税の国民負担率である。日本は48%とアメリカの32%に比べて高い。確かに社会保険料は病気をしない者にとっては馬鹿高いし、消費税も低所得者層に堪えている。筆者はこれが景気の足かせになっていると云うが、一方でドイツは54%、フランスは70%と大きな負担に耐えている国も多い。正直こればかりはよく分からない。

Wednesday, 16 October 2024

冬支度と木こり

今年も冬支度の季節がやってきた。仕込みは大変だが、薪はあっという間に燃えてしまうので、量の確保が大事だ。1〜2年乾燥させた丸太に斧を落とす。真っ直ぐ育った木なら数回で辺りは付くが、曲がっていたり途中から枝が出ていると中々割れない。性格が悪いと扱い難いのは人間と同じである。薪が無くなれば命に関わるので、このルーチンは大事である。

 問題は焚き木の仕入である。幸い近くに無料の廃材所があるので、入手に困る事はない。ただ大きなトラックがある訳でもないので、素人の運搬には限度がある。

そんな矢先、近くで小規模の伐採が始まった。何やら古木の倒木を懸念した地主が、新築の家に配慮したとか。ビルの3,4階はあるだろうか、木こりは高い木に命綱一本で登っては、上手に枝を落としていく。最近ではヘルメットにトランシーバーが付いているので、下に待ち受ける者との会話は小声だ。

 「これはひょっとしてチャンスかも?」と、思い切って「枝を譲ってくれないか」と聞いてみた。すると快く応諾してくれ、夕方には小型のシャベルカーで自宅まで運んでくれた。3m程の中木が300〜400本はあっただろうか、その量に今更断る訳にも行かず有難く頂戴したが、果たして年内に処理できるか心配になった。

 それにしても、(いつも思うのだが)木こりの顔は実にいい。造園家もそうだが、自然相手の仕事をしている人の目は澄んでいる。その一人がやってきて、私がチェーンソーで切るのを見かね歯を研磨してくれた。流石プロは違う!力を入れずにスパッと切れるようになった。こうした自然を通じた関りが何とも心良い。

Thursday, 3 October 2024

サラエボの銃声

安倍さんが銃撃されて2年が経った。安倍派は裏金問題で壊滅、世耕さんは自民党を離党し朋友の麻生さんも勢いを失った。皮肉にも天敵の石破さんが総理になり、一発の銃弾がかくも多くの人々の運命を左右するかと思うと、実に不条理である。

 思い出すのは「サラエボの銃声」である。ボツニア系セルビア人の撃った弾がオーストリア皇太子に当たり、第一次世界大戦が切って落とされた事件である。その一発で1000万人の命が失われることになった。

犯人の男はその時パンを食べていた。そこに偶然皇太子の馬車が通り掛かり、咄嗟に飛び出て撃った。馬車はその前に起きた爆発の負傷者を見舞いに、病院へ向かう途中だった。

普段ならば大通りを通る予定が、近道をしようと狭い路地に入った時だった。銃撃場所の壁にはプレートが掛かっていた。直前のルート変更は、後のJFKの時と同じだった

 犯人の男の名前はプリンツィップ(Princip)という。彼は事件後プラハ郊外のテレジンという収容所に収監された。テレジン収容所は第二次大戦に入り、ポーランドの最終処理場に向かう大きな中継収容所になった。何年か前にそこを訪れた時、プリンツィップの写真を発見してビックリ、世界を混乱に陥れた男の末路は虚しかった。

余談だが、彼は今ではセルビアの英雄になり、ベオグラードには銅像も建っているらしい。確かにハプスブルク家の支配から解放されたセルビアかも知れないが、それはこじ付けである。伊藤博文を撃った安重根の銅像もそうだが、暗殺は美化してはいけない。

Sunday, 29 September 2024

自民党総裁選が終わって

自民党の新総裁に石破茂氏が決まった。下馬評で名前が取り沙汰されてはいたが、決選投票では高市氏かと思っていただけに意外だった。それにしても5回目の挑戦でやっと射止めた総理の座、その執念がどこから来るのか分からないが、大したものである。

石破さんの力量は未知数だ。目つきが悪くオタクっぽい性格が果たして世界で通用するのか、一度自民党を出た出戻り組が仁義の世界で通用するのか、将又無派閥は聞こえがいいが、親分子分のない希薄な人間関係で運営できるのか、色々心配は尽きない。 

 ただキリスト教の信者と聞くと何となく信心深い真面目さが伝わって来るし、地方での人気は高いようだ。まずは日本丸の安全な航海を願って、お手並み拝見と行きたい。

 今回の選挙で、「この人だけは止めて欲しい」と思っていた人がいた。失礼ながらそれは進次郎氏である。あの環境相になった時に、COPの場で「(CO2削減は)セクシー」発言には仰天した。以来話せば話すほどボロが出るIQに至っては、とても日本を任せられる器ではないと思っている。竹を割るような話し方は一見痛快だが、政治課題はそんなに単純ではない。

 個人的にはバランス感覚に優れて温和な林さんがいいと思っていた。小林さんも若くて優秀、憲法改正への意欲もあるからいずれトップに就いて欲しいと思っている。

Monday, 23 September 2024

検疫の由来

読書の秋、面白いと固め読みするのが癖である。古くはクライブ・カッスラーやジャック・ヒギンズ、昨年はフレデリック・フォーサイスとシドニー・シェルダンに凝った。アマゾンプライムで頼むと、大体揃うので助かっている。

ジェフリー・アーチャーや吉村昭も長年のファンである。ただ何故か女性作家は肌に合わない。シドニー・シェルダンの本で、Tilly Bagshaweという女性作家が書いているシリーズがあるが、インパクトが全然弱い。

ところが最近、旅の影響か塩野七生さんに凝っている。男勝りの文章のタッチがいいし、歴史上の主人公への思い入れが伝わってくる。以前何冊か読んだ時、馴染みのない地名と人名が、しかもカタカナで連発されて閉口した。ただ実際にギリシャやイタリアをゆっくり廻ると、少し地理感覚が共有できるようになって来た。 

 中でも、12世紀のローマ皇帝を描いた「フリードリッヒ二世の生涯」は良かった。第六次十字軍を任され、エルサレムを無血開城した英雄である。改めて当時のローマ帝国は現在のドイツまで伸びていた事や、シシリア王国が南イタリアを含んでいたのは興味深かった。アドリア海に面するプーリア地方も寒村のイメージだったが、そんな事ならもう一度訪れてみたくなった。 

 処で余談だが、コロナで流行った「検疫」の英語はQuarantineである。イタリア語の40から来ている。中世にペストが流行った時、ベネチアに入港する船は沖合のラグーンで、潜伏期間の40日を待機したのに由来しているという。塩野さんの本には、こうしたこぼれ話も沢山出て来る。

Friday, 20 September 2024

中国人による日本人児童殺害

昨日中国の深圳で、通学途上の日本人児童が殺害された。犯人は中国人の男で前科があるという。動機はまだ解明されていないが、予てより中国人の事件が多発しているだけに、重大な局面を迎えた気がする。

折しも中国軍機の領海侵犯の矢先である。長崎の男女群島に中国軍の哨戒機は2分程、スクランブルを無視して情報収集に当たった。先月には中国空母が、日本の接続水域(EEZ)に初めて侵入する事態があったばかりで、こうした軍の攻勢が民意を後押ししている。 

 基より国内では、相変わらず中国人が絡む窃盗が多い。記憶に新しいのは、8月に能登地震で被災した会社から鉄板を窃盗した事件、6月にビックサイトで起きた宝石窃盗、今年初めに都内の倉庫からスニーカー窃盗など、小さなコンビニ強盗なども含めると、犯行の2人に1人は中国人が絡んでいる。

窃盗だけでなく、渋谷では通り魔の殺傷もあった。経済的に行き詰まると、同じような犯行に至るケースが起きる気がする。

 靖国神社の落書き事件もあった、それも二回。日本政府がどう対応したか知らないが、天安門に同じような事をしたら、大きな外交問題に発展するかと思うと、政府の対応にも不満が残る。

 日本に来る中国人観光客は爆買いをして観光地を回るが、日本人と話したり交流する話は殆ど聞かない。車内では喧嘩でもしているのかと思う程の大声で話し、道路に唾を吐き、ヒトにぶつかっても謝らない国民性に、以前から多くの日本人は眉をひそめて来た。

それでも危害を加えられる訳ではなかったので、見て見ぬふりを貫いてきた。ただ今回の事件をきっかけに、その我慢にも綻びが出始める気がする。

Tuesday, 17 September 2024

山岳レンジャーの救助

富士山に多くの外国人登山者が押し寄せている。オーバーツーリズムである。中には軽装で来るので、途中で体調を崩す人も多い。救助班の世話になっている人を見ると、「もっと準備して来いよ!」と思ってしまう。ただ不肖私も昔、彼らに助けられた一人だったから偉そうなことは言えない。

場所はグランドキャニオン、20歳の時だった。夏休みにアメリカの国立公園を軍用のシェラフ一つでキャンプして廻った時だった。満点の星を見ながらの野宿は快適であった。その日は、日の出と共に谷を下り始めた。

エンジェルトレールと称する灼熱の山道を歩く事13㎞、夕方には谷底に到着した。早速コロラド川に飛び込んで涼を取った。川沿いには多くの登山客が同じように寛いでいた。

 夕食を取りそろそろ寝ようかと思った時、アメリカ人の男二人組が寄って来た。「これから登らないか?」という。どうやら私の持っていた懐中電灯が気になったらしく、比較的涼しい夜道にその明かりで戻る事を考えたらしい。

 (未だに何故同行したのか思い出せないが)誘われるがままに、男が私の懐中電灯を持ち、先導する形で歩き始めた。処が次第に足取りが重たくなってきた。男は軽装なのに対し、此方は30㎏の荷物を担いでいたからだ。当然疲労に差が出始めた。陽が昇り明るくなり始めると、男達は無情にも「Thank you!」と言って去って行った。 

 砂漠の道を照らす太陽で40℃位はあっただろうか?遂に昼前に体が動かなくなってしまった。上から下りてくる登山者に「大丈夫か?」と声掛けられても、出るのはため息だけだった。そして遂に、後から登って来た人に救助を求めた。暫くしてレンジャーがロバと共にやって来た。ロバの背中にしがみ付き、人目を憚りながら何とか一命を取り留めたのであった。

 ホテルに入り鏡に映る姿を見て、骨と皮に干し上がっていたのには驚いた。それにしても、あの時のレンジャーは騎兵隊のようで恰好良かった。

Thursday, 12 September 2024

自民党総裁選に一言

自民党の総裁選挙が始まった。立候補には推薦人20人が必要という。各候補者は議員に電話攻勢しているようだが、この貸し借りが又新たな集団に繋がるのだろう。所詮政治は数である。裏金は良くないが、政治とはそういうものかも知れない。

 男女別姓が選挙の焦点になっている。本当かと疑いたくなる。そもそも何故旧姓を残さなくてはならないのか?よく分からない。女は生まれた家を捨てて男に嫁ぐ、男は外で働き女は家庭を守るのが日本の文化である。今の世の中がそうでないならば、昔を取り戻すのが政治である。

少子化の問題はそれに深く関係する。赤ちゃんが安心できるのはやはりお母さんである。近所でも平日に若いお父さんが、育休で子供と遊んでいるを見ると情けなくなる。そんなお母さんが安心して育児に専念できる環境が大事だ。男性社員の家族控除や扶養手当、子供支給も破格に上げたらいい。

 それには何より社会のダイナミズムを取り戻す必要がある。仕事の効率化、取り分け生産性を生まない仕事は止めた方がいい。その最たるものがコンプライアンス業務である。今の法令遵守は独り歩きしていて、法が人を縛る本末転倒になっている。所詮同じ日本人、逃げても逃げられない島国の国民性である。そんな文化を差し置いた外来の規制なんて即やめた方がいい。 

 もう一つは国と民間の関係だ。小さな国だから、役人と民間がもっと一体にならないと強くなれない。その為には同じ釜の飯を食い、大いに酒を酌み交わし日本の未来を語って欲しいと思っている。接待費なんてその対価を考えれば安いものである。いっそ青天井にして堂々とその交流をやればいい。優秀な人もまた霞が関に戻って来るだろう。

 選挙というとマニュフェスト、これもナンセンスだ。選挙公約は時と共に刻々と変化するものだ。それを金貨極上の如きに守るのは、お互いにとって不幸である。駄目なら次の選挙で投票しなければいいだけだ。外来用語を使ったキャッチフレーズは、往々にして女子供を煙に巻く常套句である。

Wednesday, 4 September 2024

熊の話

熊が各地に出没し被害が出ている。最近友人の家にも現れ、飼っていた鶏が食べられてしまった。毎晩やって来て、遂に七羽も死んでしまったと嘆いていた。

幸いそんな怖い思いはした事がないが、スポーツ店のゼビオの入り口に立っているヒグマの剥製を見ると圧倒される。悠に300〜400Kgはあるだろうか?森の中で対峙したら終わりだ。

 熊は今まで「パディントン」や「くまのプーさん」のイメージがあるから可愛い対象だった。顔も我が家の愛犬に何処となく似ているから尚更である。

 しかし吉村昭氏の「熊嵐」など読むと、現実に引き戻される。クマと人間の闘いは壮絶で、例えば人家を襲ったクマが食べるのはボリューム感がない子供より大人、それも女だという。射殺後に胃を切り裂くと、中から消化しきれなかったヒトの髪の毛や着物の切れ端が出て来るから怖い。

 因みに熊の肝は貴重品だったらしい。便秘や高血圧に効くと、熊を仕留めたハンターが持ち帰る習わしがあったそうだ。確かに今でも「熊膻圓(くまたんえん)」という薬が売られていた。ただ価格は普通だった。今時、胃腸薬で使う人も少なくなったのだろう。

Friday, 30 August 2024

マルタ騎士団のルーツ

外国語に堪能な人の書いた文章は読んでいて心良い。生情報の臨場感が違う。最近そんな思いをした2冊の本があった。 

 一つは島村奈津さんの「シシリアの奇跡」である。シシリアマフィアを市民の立場から見た本で、良く情報収集をしていた。

マフィアと言えば、映画の「ゴッドファーザー」位しか知らなかったが、10年程前にコルレオーネ村を訪れてから興味を持っている。 

 マーロン・ブランド演じる主人公のヴィト・コルレオーネのモデルはLuciano Liggioという。彼は映画と違ってアメリカに渡った訳ではなかったが、コルレオーネ村の出身だった。

 彼の後継がリーナことSalvatore Riinaであった。彼はアンブロシアーノ銀行頭取のカルビを殺害したバチカン事件の主犯であった。ゴッドファーザーのPart IIでもこの場面が出てきたが、彼もやはりコルレオーネ村の出身だった。 

 本ではサレミ(Salemi)という村のマフィア博物館を紹介していた。実はこの夏、遥々車を走らせ辿り着いたものの、休館日で入る事が出来なかったので助かった。

もう一冊は塩野七生さんの「ロードス攻防記」である。土産物屋を廻りビーチでゴロゴロしていただけのロードス島だったが、改めて1522年の攻防を解説して貰えると、感慨も一入だった。

 例えば島の入り口に立っていた風車、それは北西風から船を守る為だったのだ。また島を守っていた騎士団、ロードス島を去ってからバルト海に移ったのがチュートン騎士団だったり、フランスに戻ったテンプル騎士団はフランス王に壊滅されたり、そしてマルタ島に行ったのがマルタ騎士団になったり。

彼らはマルタ島でまた築城を始めた。そして43年後の1565年に、押し寄せたトルコ軍の撃退に成功するのであった。町の名前のヴァレッタはロードス島から移った騎士で、ロードスの無念をマルタで晴らしたのであった。今では半分コンクリートだが、町全体を要塞化した風景を思い出しては、そのルーツに思いを馳せたのであった。

 ロードス島の高台には騎士団長の館があり、今でも立派な部屋が残っていた。たった600人の騎士で、10万人のトルコ兵相手に5ヶ月も踏ん張ったのは凄かった。騎士とは何か、少し分かったような気がした。

Monday, 26 August 2024

べチャの時代

インドネシアの首都が、ジャカルタからジャワ島に移転する事になった。人口集中や地震リスクを回避するのが理由らしい。ただ完成するのは2045年と言うから、未だ紆余曲折がありそうだ。 

 思い出すのはマレーシアの新都市、プトラジャヤ(Putrajaya)とサイバージャヤ(Ciberjaya)である。プトラジャヤは行政の町、サイバージャヤはIT企業が集まる町である。20年程前に出来たばかりの町を見学した事があったが、どちらも殺風景な箱もので、加えて何とも言えな巨大なイスラム建築が少々気味悪かった。

率直に「こんな所に人が住むのだろうか?」と思った。東南アジアというと、ゴチャゴチャして人間臭いのが特徴である。密集した路地裏を三輪バイクが所狭しと走る、屋台やマッサージ店には人で溢れ、暑いからダラダラして、そんな凝縮文化が生命の源になっているからだ。

 ただ時間が経てば次第に、新旧のバランスも整うのかも知れない。いい例がオーストラリアのキャンベラやアメリカのワシントンDCである。特にワシントンDCは郊外に続く電車のアクセスもいいし、その先には緑に囲まれた住宅地やショッピング街が見事である。

 インドネシアは最初に行った東南アジアの国であった。当時は冷房がなかったし、宿泊場所では給仕が部屋まできて調理していた。移動はもっぱらべチャ(自転車タクシー)、勿論水でお腹をやられた。ただその親日的な国民性に一度で好きになってしまい、一時はここに骨を埋めてもいいと思った事もあった。あれから50年、懐かしさもあって気になっている。

Friday, 23 August 2024

アラン・ドロンの死

先日、フランスの俳優だったアラン・ドロン(Alain Delon)が亡くなった。享年88歳、最後は子供たちに看取られて息を引き取ったという。

ただ女性遍歴も華やかだったので、その子供も離婚したナタリーの男の子と、その後にオランダ人との間に設けた男女の2名と分かれた。生前から子供達の中傷合戦もあったようだし、昨年まで身の世話をしていた日本人女性も存在もあった。彼女は結局子供たちに追い出されたが、恋多き人生と孤独な老後はセットのような気がしてならない。

 アラン・ドロンで思い出すのは、70年代に流行ったレナウンのCMである。ダーバンの背広を着て、あの有名なセリフ「D'urban, c'est l'elegance de l'homme moderne(ダーバン、それは現代を生きる男のエレガンス)」を吐いた。フランス語の意味が分からない人にも、そのインパクトは大きかった。

 因みに同じ頃流れたCMで、チャールズ・ブロンソンのマンダムや三船敏郎のサッポロビールがあった。高度成長期で男が化粧品を使い始めた頃だったり、キリン一極が揺らぐきっかけにもなった。就職面接で「男は黙ってサッポロビール」のキャッチフレーズを使った輩もいた。

 映画は「太陽がいっぱい(Plein Soleil)」しか記憶にない。完全犯罪かと思いきや、最後にヨットから死体が現れるオチは印象的だった。シシリーを舞台にした「山猫」や、「サムライ」「危険が一杯」など、これを機会にレンタルして偲びたい。

Saturday, 17 August 2024

トロイ戦争とアキレス腱

今回ギリシャで訪れた遺跡の中で、最も古かったのはミケーネ(Mycenae)であった。BC16-14世紀と言われ、ドイツのシュリーマンが150年程前に発見した。ただ歩いてみても、素人には殆ど違いが分からなかった。

ところが最近、そのミケーネは「アキレス腱」と関係がある事と知ってから、グッと身近になった。アキレス腱は、ミケーネの勇者「アキレウスの急所」から来ていた。

彼は生まれた時、母親に不死の川で清められたが、母親が踵を持って浸けた為、その部分だけが不死にならなかったのだ。案の定、その踵を射られて命を落とす事になった。

それが「トロイの戦争」であった。改めてブラッド・ピット演じる映画「トロイ(Troy)」のDVDを見直して、初めてその流れが分かった。

物語は、トロイの王子がスパルタ(ミケーネ時代のギリシャ)の王妃を浚ったので、彼女を取り返す戦争であった。10万人の兵と1100隻の船でトロイ(今のトルコ)に押し寄せ、10年の歳月を経て、最後は有名な「トロイの木馬」で城内に入りスパルタが勝利した。

 ただアキレウスは兎も角、王妃を浚った王子は夫に比べて若いし、スパルタの大将は娘を生贄に差し出したので妻に殺されるなど、どちらかというとトロイに同情してしまう。その為か後に、トロイの末裔はローマの礎になる一方で、スパルタはローマに飲み込まれるのであった。

Thursday, 15 August 2024

セーヌ川の下水処理場

オリンピックで「セーヌ川を泳ぐ」と聞いて驚いた。案の定、トライアスロンで泳いだ選手が体調不良を起こした。流れは早いし水量も多く、勿論衛生面の心配もあるから常識ではあり得なかった。

その代わりに夏になると、川沿いに巨大なプールが出現する。ヴァカンスに行けないパリ市民が、せめてもの涼を取る場所である。ただそこは有名なホモのたまり場でもあるので、避ける人も多いと聞く。

 そのセーヌ川の水質を管理しているのが、地下の下水処理場である。マルヌ橋の近くにある小さな階段を降りると、ゴーゴーという音と鼻に突く匂いが出迎えてくれる。昔から隠れたツアーとして有名だが、最近は博物館(Musee des Egouts de Paris)に格上げされていた。期間中にホームページを見たら、水泳の写真を掲載して安全性を強調していたが、終わると写真はなくなっていた。 

 パリの地下はこの下水道やかつては石切り場もあったので、巨大な空間が残っている。その距離は全長で2700kmと言われる。小説にもよく登場した。「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンが負傷したマリエスを担いで逃げたり、フレデリック・フォーサイスの「マンハッタンの怪人」では、オペラ座の地下を流れる水路を伝って脱出した。

 ただ気色悪いのは「カタコンベ」と称する地下納骨堂である。600万人もの骨が綺麗に積み重ねられ、薄暗い通路に沿って不気味な光を放っている。昔興味本位で覗いて見たが、ここだけは頼まれても二度と行きたくない。

Tuesday, 13 August 2024

アポロンの聖木

連日熱戦が続いたオリンピックが終わった。オリンピック発祥の地を旅した後だけに、その古代オリンピックとの関係や由来が気になっている。早速ギリシャ神話の入門編を読むと、これが又面白かった。 

 例えばマラソン勝者が冠する月桂樹、ギリシャ語ではダプネ(Daphne)という。アポロンが恋した女性ダプネの名前から来ていた。彼女はアポロンの愛を拒み続けたので、月桂樹に変えられてしまった。以来忘れられないアポロンは、それを聖木として身に付けたという。だから男性ランナーならいいが、女性ランナーが貰うと霊が乗り移らないか心配になった。
アポロンは力強く容姿にも恵まれ、芸術センスもある理想像だったから、人々はそれに肖ろうとしたのだろう。因みに月桂樹は英語でLaurel、そう日産の車の名前である。今では誰でもおカネを出せば手に入れる事が出来る聖木なのであった!

 オリンピアの聖火も、火を守る女神ヘスティア(Hestia)から来ていた。「火を灯す限りへルティアが宿る」と、平和と幸福の象徴であった。オリンピアで聖火採火を司るのが全員女性というのも、ヘスティアに重ねたのだろう。 

 会場になったパリのシャンゼリゼ(Champ-Elysees)もあった。英語だとElysian Fieldsになる。そのElysian(エリュシオン)はギリシャ神話の冥界の「楽園」の名前であった。一方開会式の舞台になったエッフェル塔が立つChamp-de-MarsのMarsは「戦いの神」だった。そんな由来に肖って場所選定をしたのかも知れない。

 また紛らわしい呼び名もある。レスリングのグレコ・ローマン(Greco-Roman)なんて言葉を聞くと、文字通りギリシャ・ローマ時代を想像する。古代オリンピックの選手は全裸だったので、さぞかし凄まい光景かと思いきや、此方は1800年代にフランスで始まった余興の箔付け名称で、古代とは関係なかった。

Tuesday, 6 August 2024

糸に針を通す国

旅をしていると地元の人の善意に助けられる事が多い。特に駐車のチケットの買い方が難しい。場所によって払い方も違うので都度地元の人に聞いて凌いだ。

特にTrapaniのタクシーの運転手さんには世話になった。小銭がないと分かると、近くの自販機まで連れて行ってくれ、パーキングスペースも空きが出ると仕事そっちのけで確保してくれたり、本当に助かった。

片言の日本を話す親日家も多かった。Aci Ciclopi遺跡の管理人は、此方が日本人だと分かると、「谷崎、川端、一茶、芭蕉・・・」と文人の名前を連発した。日本の寺で修行でもしたのだろうか?その日本の神秘に魅せられたようだった。

彼は静かに手を合わせ、息を吐く仕草をした。欧米人は一般的にビックリしたり感動した時に息を吸う。日本人は逆に吐くから、その違いに異文化を感じたのかも知れない。 

 そう言えばRafcadio Hearn (小泉八雲)も、日本の女が針に糸を通す仕草に驚いていた。欧米では糸に針を通すからだった。

彼は本質を射る流れも、欧米では外から内へ進むのに対し、日本人は内から外に拡散するなど、話し方を通じて違いを発見した。鋸は日本式が引いて切るのに対し、欧米式は押して切る話は有名だ。東西文化の違いは奥深い。

勿論悪い輩もいた。ホテルに泊まると市税が5%程が掛かり、ホテル代と一緒にカード決済する。

処がとあるホテルのマネージャーは3倍ほどを、それもキャッシュで吹っ掛けて来た。此方が「そんなに高いの?」と言うと、2倍に下げてきた。しかしそれでも訝っているとやっと正規にした。彼の小遣い稼ぎだったようが、こういう事があると旅が不快になる。

Sunday, 4 August 2024

シシリーワインと海産料理

地中海に囲まれたシシリー島は食の宝庫である。取り分け海産類は豊かである。タコやイカのフライ、白身魚やエビのマリネなど、レモンをたっぷり掛けて食べる。勿論パスタやピザは本場だけあって何処に行っても美味しかった。

個人的には牛肉の入ったスパゲティボロネーが好きである。以前クロアチアやルーマニアを旅した時、昼は殆どこれに絞って食べ続けた。人から「よくそんなに飽きずに続くもんだね!」と冷やかされるが、当たり外れがなく国によって味の違いを楽しむのも悪くない。 

 食事に欠かせないのがワインとビールである。炎天下に汗だくになって遺跡を歩き、宿に帰ってシャワーを浴びて飲むビールは最高である。しかも行く先々で出て来るローカルビールは、旅の気分を一層高めてくれる。イタリア本土の玄関口にメッシーナという町があるが、町の名前を冠した黄色いラベルの地ビールや、遺跡のアグリジェント近くで作られたSeme doratoは記憶に残る一杯になった。 

 ワインも同じである。シシリーはワインの産地で、イタリア全体の17%程を作っている。岩山にオリーブやレモンの畑と並んで、こじんまりしたブドウ畑が続いている。その小規模多品種が何ともいい。

カターニャ郊外の海辺のレストランで、ワインリストを見て、店の主人に「地元のシシリーワインが飲みたいのだけど」と聞いてみた。すると「何言っているの?これ全部シシリー産だよ!」と言われて驚いた。その数は30〜40種類もあっただろうか、何気ない店なのに、シシリーの奥深さを実感したのであった。

 因みにシシリーワインの味は普通である。何故か白が赤に比べて多い。ギリシャワインがバルカン半島に有り勝ちな泥臭く甘い田舎風なのに対し、カラッとしている。

Thursday, 1 August 2024

インディ(Indiana)とシラキューサ

旅の後半はシシリー島である。10年程前に一度行ったが、時間が止まったような島の魅力が忘れられず、再度訪れてみる事にした。例によってレンタカーを使い、前回は左回りだったので、今回は右回りで一周した。

特に前回素通りしてしまったシラキューサ(Siracusa)は感慨深かった。シラキューサは人口12万人の町、かつてはアテネより強いポリスだった。歴史に名を残したのが、第二次ポエニ戦争(BC214-212)であった。ローマ帝国相手にカルタゴと組んで戦い、最後は陥落した一戦である。 

 その様子をCGで再現したのが、昨年公開された映画「インディー・ジョーンズと運命のダイヤル(Indiana Jones and the Dial of Destine)」であった。映画の後半に出て来るシーンだが、タイムスリップした飛行機からDr.ジョーンズが見たのは正にその攻防戦であった。

 ローマは鉤縄付きの攻城塔で攻め、対するシラキューサはアルキメデスが発明した新兵器、例えば巨大な火の玉石を放つ投石器、船を吊り上げる鉤爪、太陽光で帆を焼く武器で3年も持ちこたえた。島の先端にある要塞跡に立ち、湾を前にそのCGを想い浮かべ、Dr.ジョーンズに肖って2400年前の感動に浸ったのであった。

カルタゴのアフリカ人は、その後島の西に追いやられた。その足跡を残すのがマルサーラ(Marsala)という食後酒で有名な町だった。町に入ると作りが単調な真四角の家が現れ、それはアフリカやアラブの風景だった。その町から北に行ったトラッパー二(Trapani)という町は、アフリカ行きの船の発着場であった。

Monday, 29 July 2024

ロードス騎士団の話

ギリシャは島が多く全部で3300もある。ただ行くとなると飛行機かフェリーなので、結構おカネも時間も掛かる。そうは言っても一つぐらいはと、今回はロードス島(Rhodos)を訪れた。

アテネから飛行機で1時間、ヨーロッパ有数のリゾートと言われるだけあって、多くの観光客で溢れていた。ビーチには色とりどりのパラソルが並び、旧市街には多くの土産物屋やレストランが立ち並んでいた。おしゃれを気にする文化なのか、美容院がやたらに多かった。折角なので散髪してもらうと、島人の気分になった。  

 空港から市内に向かう途中、タクシーの運転手が対岸の山はトルコだと教えてくれた。それはまるで台湾から見た中国大陸のようで大きかった。攻めて来られたら一溜りもないと思っていると、面白い話を聞いた。それは1522年にペルシャの大軍が押し寄せた時だった。 

 島を守っていたのは、エルサレムからキプロスを経てやってきたロードス騎士団であった。今でも立派な館が残っていたが、彼らはその戦いで敗北して島を去り、辿り着いたのがマルタ島だった。そして名前をマルタ騎士団に変えて今に至っているという。

マルタ島はその後のオスマン軍の包囲や、第二次大戦の対ドイツにも耐え抜いて、1964年には遂に独立を果たした。ロードスを去った騎士団がマルタ島で花を開き、占領されたロードスも地元のギリシャに戻った。歴史を知ると今の平和の重みも違ってくるのであった。

Friday, 26 July 2024

「滅びた事ない国」1位の日本

ミシュランガイドを頼りに2〜3つ星を目指して廻った。コリントス(Korinthos)、ミケーネ(Mycanae)、エピダブロス(Epidavros)、ミストラス(Mystras)、メッソーニ(Methoni)、オリンピア(Olympia)、ヴァッセ(Vasses)、メテオラ(Meteora)、エレフシナ(Elefsina)等々・・・。

どれも広大な敷地に広がる遺跡である。最初は珍しがっていたが、次第にどれも同じ瓦礫に見えてきた。ただ年代を調べると、ミケーネが紀元前16〜12世紀と一番古く、大方は紀元前6〜3世紀、ミストラスの町やメッソーニの要塞跡、メテオラの修道院に至っては14世紀と比較的新しかった。同じ廃墟とは言え、建造目的や用途も異なっていた。

 破壊した側も時代によって違った。古くは東西のローマ帝国、中世からはオスマン帝国だった。ただバルカン半島を旅すると「オスマン=侵略者」のイメージが強かったが、気のせいかギリシャはそれがなかった。歴史の半分を東西ローマ帝国に仕えた名残だったのだろうか、将又ギリシャ人の反西洋意識なのか、いつか識者に聞いてみたい。

ところでこの古代遺跡を前にすると、日本の歴史が小さく見えてきた。縄文時代か弥生時代頃だろうか?しかし帰ってから改めて調べてみてビックリ、何と世界で「滅びた事のない国」の1位は日本であったのだ。

紀元前660年の神武天皇から今に繋がる天皇制は2700年にもなり、ギネス認定されていた。因みに2位はデンマーク、3位は958年の英国、中国に至っては80年にも満たなかった。日本はギリシャより古かった!

 複雑な感情を持つのは、今のギリシャ市民も同じである。レストランでワインを頼む時、当然「ギリシャのローカルワインね!」と言うと、ボーイは「ギリシャをマケドニアって言う奴がいるけれど、これは本物のギリシャワインだ!」と訳の分からない言い訳をする。

ヘレニズム文明を築いたギリシャの英雄アレキサンドロス大王は、隣国マケドニアの出身、今では西マケドニアはギリシャの隣国だったりするのが引っ掛かるのだろう。過去を遡ると自分の国ではなかったりして、自身のルーツは誰しも気になるのである。

Wednesday, 24 July 2024

オリンピアのトラック

間もなくオリンピックが開かれる。今年はパリが舞台である。あの汚いセーヌ川で泳ぐというので大丈夫かと思うが、レトロで粋な計らいもフランスの特徴である。選手は柔軟でタフであった欲しい。

そのオリンピックの聖地、オリンピア(Olympia)の遺跡を訪れた。アテネから南西へ360㎞、崩れたとはいえ、古代遺跡が当時のまま残っていた。今でも聖火のスタートとなるゼウス神殿や選手宣誓の館など、高度な精神文化が宿っていたのが伺えた。

中でも感動的だったのはトラック競技場である。一周300m程だろうか、トラックの真ん中に下りてスタンドを見上げると、「テルマエ・ロマエ」の映画に出て来るような歓声が聞こえてきた。

 古代オリンピックは紀元前776年から西暦393年まで、4年ごとに1200年の永きに渡りこの地で開催されたというから驚きである。オリンピックの起源は戦火、疫病を逃れた人々の健康を志向したようだ。そう言えば、Epidavrosというやはりミシュラン3つ星の遺跡には、今でも使える野外劇場があり、これも病んだ人々の精神回復が目的だったという。当時のギリシャ人は、今にも増して健全な社会を追求していた。

処でマラソンの起源になったアテネ郊外のマラソナス(Marathonas)にも足を運んだ。BC490年にペルシャ軍に勝利した報告を、一人の兵士が42㎞を走ったのが由来だった。マラソンとはその兵士の名前かと思いきや、戦場となった町の名前だった。

因みにその町にあるマラソン博物館には、歴代の優勝者の写真と靴が飾ってあった。Qちゃんや野口みずき、円谷選手や有森さんも含めて、日本人ランナーに取り分け多くのスペースを割いていたのが印象的だった。

Tuesday, 23 July 2024

Lafcadio Hearnの生地

ギリシャ人で思い出すのはマリア・カラスとJFKのジャクリーヌ夫人、最近ではテニスのチチパスぐらいである。処がガイドブックには、ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)こと小泉八雲が出てくる。折角なので、彼の名前の由来にもなった生地レフカダ(Lefkada)島を訪れてみた。

ギリシャの北西に位置するこの島は、90度回転する移動式の桟橋と、モンサンミシェルのような土手道(Causeway)を通って入った。途中大型ヨットが通過するのを待つ事10分、島の玄関口に彼の胸像が建っていた。

 ハーンは英国陸軍の軍医の子供として1850年にこの地で生まれた。アメリカのジャーナリストとして来日したのが1890年、40歳の時だった。以来松江を皮切りに早稲田、東大などの教師を務め54歳で没した。日本人の妻(節子)を娶り、その彼女をヒロインにしたNHK連続小説「ばけばけ」が来年放映されるというので楽しみだ。

 帰ってから早速彼の作品をいくつか読んでみた。来日当初の「日本瞥見記(Glimpses of Unfamiliar Japan)には、人力車から眺めた風景を、「東洋の額縁の中に西洋(ミシン屋や写真館)が入っている。全てがミニュチュアの世界だ!」と興味深い表現で語っていた。また有名な「怪談」や「骨董」など、多分妻から聞いた話なのだろうか?日本の怨霊や霊魂に強い関心があった事も伺えた。

また面白かったのは、距離をマイル、重さをポンド表記していた事だった。内容は全く日本で訳も素晴らしかったが、これだけはどうしようもなかったようだ。

時を経て、異国への旅を通じて、古き幕末の日本と日本人を垣間見るきっかけにもなった。不思議な気分である。島から北に車を走らせると、夏のこの季節、ビーチは多くの海水浴の人でごった返していた。

Monday, 22 July 2024

アテネの落書き

今年は日本とギリシャの外交125周年、佳子さんに肖った訳ではないが、そんなギリシャをゆっくり旅してみた。 

まずアテネに着いて驚かされたのは、落書きの多さである。至る所の壁や施設にペンキが塗られていた。2009年から始まった財政危機の煽りなのか、一見人心の荒廃ともみれたが、当時の人々、取り分け若者の怒りが伝わって来た。

一連の発端は政府による財政赤字の隠ぺいだった。GDP比で5%の財政赤字は実は12%もあった。背景には国民の4人に1人は公務員で定年は53歳、年金は現役時代と同じ額が支給されるなど、財政破綻は縁故主義の蔓延だった。

EUは緊急支援の見返りに改革を迫ると、失業率は2014年には26%にも上がった。勤勉をモットーとする西洋流のリストラにも反感があり、落書きに繋がったようだ。ギリシャ人は肌が黒いし、ギリシャ正教はキリスト教でもイスラム教でもない。その特殊な民族性と、それでも何とか西洋社会の中で生きるジレンマだった気がする。

改革は消費税が未だに23%と高いように道半ばである。ただ今の治安はいいし、街も落ち着きを取り戻していた。オリーブとレモンをふんだんに使ったギリシャ料理はヘルシーで飽きが来ないし、何より素朴なワインが美味しい。

ソクラテスやプラトンを生んだ栄光の古代、ローマとビザンチンの間の微妙な立ち位置、その過去の遺産で生きる観光立国、エメラルドのエーゲ海と白い大理石に代表される風景を思い出しながら、これから旅を振り返ってみたい。

Friday, 21 June 2024

小池知事の学歴疑惑

都知事選が始まった。50人以上が立候補する混戦である。300万円を出せば誰でも出れる。だから売名行為を目的とする人もいるのだろう。それにしても本命の4人を含め、これといった人がいないのも困ったものである。

消去法で行くと、やはり小池さんかと思っている。過去の実績で無難にやってくれるだろう。ただ例の学歴詐称が気になる。元側近は刑事告発したり、カイロ時代の旧友の書いた記事も信憑性がある。特に元環境省の人は、昔から存じ上げている誠実な人だけに猶更である。

所が残念な事に、これがスタンフォード大やハーバード大ならいざ知らず、カイロ大となると関心度はグッと下がる。「そんな処(と言っては失礼だが)出ても出なくても、どうでもいい!」というのが率直の感想である。

一方で思い出すのは、松本清張の「砂の器」である。名を馳せた音楽家が、過去を知る恩人を殺害する事から事件が発覚する。孤児だった彼は、戦後のドサクサに紛れ焼失した戸籍を使い、別人に成り済ましたのであった。時間と共に嘘がバレていく恐怖は、名を成した人ほど大きいのである。

 それにしても何故マスコミも含めて、カイロ大に照会できないのだろう?と不思議である。普通は問い合わせれば、「そんな人は卒業生にいません」と返ってくる。その辺の曖昧さが事態をより複雑にしている。

Thursday, 20 June 2024

古代の列石群

英国のストーンヘンジに、ペンキのようなものが掛けれられた。犯人は環境保護団体という。暫く前にも美術館で同じような事件があったが、環境とは真逆の行為に理解に苦しむ。

そのストーンヘンジだが、古代の習慣、儀式など謎に包まれている。ただ規模はこじんまりしていて、他の列石群に比べれば点のようなものである。ロンドンから近いせいだろうか?

 代表的な列石群の一つは、フランスのブルゴーニュ地方のカルナック(Carnac)だろう。数にして3000個はあるだろうか、高さ4m程の巨石が、1kmに渡って続いているのば圧巻である。ブルターニュ地方には、他にも沢山のメンヒルと呼ばれる列石が多く、ケルト人の祖先の足跡が伺える。 

 もう一つはスコットランドの北端に位置するオークニー島である。こちらはストーンサークルと呼ばれる直径にして30m程の石柱群、古代住居跡や円墳が残っている。時代はカルナックもそうだが、紀元前3000年頃と言う。今でも寒くて不便な島に、太古から文明が栄えていたかと思うと人間の逞しさを感じるのである。

エジプトのピラミッドもそうだが、誰がどうやってこんなに重い石を運んで組立てたのか?石は当時のまま現存しているから、触れる事によって古代のロマンが蘇るのである。

Wednesday, 19 June 2024

ラ・ロッシェルと島々

映画「史上最大の作戦」は史実に忠実な作品で、ロケも殆ど現存する現場で行われた。ただ上陸のノルマンディーだけは、空爆で丘も変形してしまったため、中西部のレ島(Ile de Re)になった。以前わざわざ見に行った事があるが、確かに長く続く海岸線は映画のシーンだった。

レ島は近くのオレロン島と並び、牡蛎が有名な島である。夏になると観光客が訪れるが、コートダジュールが立派なホテルが立ち並ぶ上流階級向けなのに対し、車でキャンプする極めて庶民的な場所であった。 

 フランスの島は文化が凝縮していて面白い。有名なモン・サン・ミッシェルは言うまでもないが、ナポレオンの故郷コルシカ島には、モヤイ像のような古代遺跡が多く残っていて歴史を感じた。美しい島を意味するブルターニュのベル島(Belle Ile)には、黄色い口ばしを持つパフィンという珍しい鳥が生息していた。湾には立派なヨットが停泊していて、フランス人の豊かな生活振りを垣間見た場所でもあった。 

 レ島から桟橋を通ると、大きな港町ラ・ロッシェル(La Rochelle)に出る。ここはフランスにおけるプロテスタントの牙城で、ナントの勅令が出るまでカソリックと対立した歴史の町だった。

 第二次大戦中はドイツ軍の潜水艦基地もあったので、今でも立派なブンカ―が残っている。その跡地でロケしたのがインディー・ジョーンズの「レイダーズ」であったと、それは最近知った。

吉村昭の「深海の使者」にも、大戦中に日本の潜水艦がUボートを引き取りに行った軍港が出て来る。ひょっとしてそのラ・ロッシェルかと思って調べたが、それは近くのブレストだった。

Wednesday, 12 June 2024

ロンメルの休暇

ノルマンディー上陸に纏わる小説や映画は多い。どれも興味が尽きないが、特に「上陸地点は何処?」を巡る情報戦は面白い。お互いにスパイを使って収集と偽情報の拡散を行った。

ケン・フォレットの「針の眼(Eye of the Needle)」は、英国で活動するドイツスパイの話であった。スパイは偽装を見抜いてノルマンディーを確信したが、情事に溺れて帰国出来なかった。また「烏(Jackdaws)」は反対に、パリに潜入する英国の女性スパイの話。随分前に読んだが、「上陸地点はパ・ド・カレー(Pas-de-Calais)」の偽情報の流布に成功した。

その都市カレーは、英仏を繋ぐドーバー海峡の最短ルートである。昔からフェリーの発着点で、ユーロトンネルの起点になっている。ドイツ軍の大半はここが本命と思って主力を置いていた。その為、今でも断崖には手付かずの要塞跡が数多く残っている。第二次大戦初頭に英国軍が撤退したダンケルクも近くにある。

上陸が成功した理由の一つが、司令官ロンメルの不在だった。D-Dayの6月6日は、運悪く彼の妻の誕生日であった。長らく休暇を取っていなかったロンメルは、暫くは侵攻がないものと判断し、その日に合わせて国に帰る事にした。 

 彼は前々日の6月4日の朝7時に、司令部のあったフランスのラ・ロッシュ・ギオン(La Roche-Gyon)村を発って、自宅のあるドイツのヘルリンゲン(Herrlingen)に向かった。当時は安全上の理由で、将校の移動に飛行機が禁じられていたので車だった。

距離にして約800km、コーネリアス・ライアンの「史上最大の作戦(The Longest Day)」には「夕方の3時ごろに着いた」と書いてあったので、時速100㎞以上で走った計算になる。当時の道路事情を考えると物凄く速かった。

彼が家で寛いでいた頃に侵攻が進んでいたかと思うと、何ともやり切れない心境を察する。そういえば、戦後アルゼンチンに逃亡して潜伏していたアイヒマンも、奥さんの誕生日に花を買った事で身元がバレて捕まった。身内には甘くなるのは人間だから仕方ないのだが・・・。