その日は大好きな「愛の喜び(Plaisir d‘Amour)」や「糸を紡ぐグレートヒェン(Gretchen am Spinnrade)」こそ出て来なかったが、ブラームスやシュトラウスの小曲を聴いた記憶がある。
彼女は典型的なアーリア人だから、嘸かし戦中も引き合いに出されたかと思いきや、Wikiで意外な原点を知った。それは校長だった彼女の父親がナチ党大会を拒否した事によって、大学進学の道が閉ざされ、結果的に音楽の道に進むことになった経緯である。
オーストリア西部のシューベルトも良く訪れたという村には、彼女の博物館もあると言うので、また旅の寄り道が増えた。ドイツとスイス国境に近いその一帯は、随分前に旅して民宿に泊まった事があったが、英語やドルが全く通じないド田舎であった。そんな処で晩年を過ごしたのも意外だった。
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