その日は終わって真っ直ぐ帰ったが、後でイタリア人が多く住んでいる町だと分かった。第一次大戦が終わった1920年代に、マルタ島、ユーゴスラビア、ギリシャなどから移民がやって来て、中でも多かったのはイタリア人だったという。
もう一つはカウラ(Cowra)の収容所である。カウラはシドニーから300Km内陸に入った処に残る広大な捕虜収容所跡である。ここには太平洋戦争時に1000名程の日本人捕虜がいた。終戦の一年前に集団脱走を図り、半数近くが命を失った場所である。実際に行ってみたが、仮に脱走できてもどうやって国に帰るのか?その馬鹿げた事件の陰には偉ぶった扇動者がいたと聞いて腹が立った。犠牲になった多くは若者も含めた軍属だった。500人近い犠牲者が眠る立派な墓を現地の人が管理していると知り、供養に行ったが頭が下がる思いだった。
ところでそのカウラ収容所には、当時同じ数のイタリア人捕虜もいた。彼らはのんびりと戦争が終わるのを待っていて、勿論脱走は晴天の霹靂で傍観していた。そのお国柄に「やっぱりイタリア人だな!」と思ったが、一体彼らはどこから来たのだろう?
先日たまたま読んでいたアラン・ムーアヘッドの「砂漠の戦争」という本でその事情がよく分かってきた。それはドブルク、ベンガジ、エル・アラメーンなど、我々にとって殆ど馴染みがない地名だが、北アフリカ戦線の激戦地である。英国軍の奇襲にイタリア軍は殆ど降参し、その奪回を図ったのがロンメルだった今のリビアである。その時に捕虜なったイタリア兵士の内、14000人がオーストラリアに送られて来たと言う。カウラの収容されたのはその一部だったようだ。捕虜の何人が母国に戻らず住み着いたのか分からない。その辺、又現地に行ったら聞いてみたいと思っている。
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