Sunday, 31 October 2021

裏銀座と六本木

今年はまた山登りを始めた。昔のような神風登山は出来ないが、馴染みのある優しいコースを選んで安全第一でやっている。麓に下りて、汗かいて登った山を見ながら温泉に浸かれば正に極楽気分である。 

 登山を始めたのは中学生の頃だったか?近場の秩父や奥多摩を皮切りに、気が付けば南アルプスの北岳、北の穂高と槍の表と裏銀座、中央アルプスの宝剣岳など主だったコースは殆ど踏破した。

ただ多くは単独行であった。サラリーマンだったから、気軽に時間のある時に天気を見ていけるのが効率的だった。思えば最近のゴルフと同じである。

当時の新田次郎の小説「孤高の人」の影響も大きかった。今で言うランニング登山の端がけであるが、天才クライマーの加藤文太郎と我を重ねた。彼はある時頼まれて人を同伴する事になり、その思わぬ気遣いで遭難死する話であった。 

 以来他人に迷惑を掛けまいと単独行に徹している。ただ最近、1人登山者が熊に襲われたとか、コロナで外出自粛の中滑落して発見が遅れたとか、そんなニュースを聞くと複雑な気分になって来る。 

 北の裏銀座は、前日六本木で飲み会があって出発が遅れた。それを取り戻そうと三俣蓮華、双六を過ぎた頃から足が動かなくなり、陽が落ちて野ザルも出て来た。猿達に見つめられながら槍ヶ岳山荘に着いた時には暗くなっていて、極度の緊張感で白髪になってしまった。 

 宝剣岳から木曽駒を通る中央アルプスのルートは人気も少なかった。途中滑落して助けを求めたが通る人もなかった。勇気を出して元来た道に戻ったのが幸いした。兎角疲れていると下山する心理が働くから、あの時の判断で命が救われた。山を見ていると、そんな日々を思い出す。

Wednesday, 27 October 2021

ショパンとポーランド

今年のショパンコンクールで、日本人の男女が2位と4位に入賞して話題になった。特に2位は内田光子以来51年振りというから快挙であった。ただ我々の世代で思い出すのは何と言っても中村紘子さんである。彼女は確か4位だったか、幼稚舎出身の育ちの良さと美貌で一躍有名になった。

更に押し上げたのが庄司薫氏との結婚だった。 庄司氏は東大出の作家、当時ベストセラーになった「赤頭巾ちゃん気を付けて」が一世を風靡した。ところが彼はその後全く筆が止まってしまい、世間から忘れられた人になってしまった。一体生活はどうしていたのだろう?ひょっとして中村さんに食べさせて貰っていたのかだろうか?その中村さんも随分前にお亡くなりになってしまった。作家は職業人生が長いように思っていたが、一発屋のようで何か哀れに思えてくる。

そのショパンであるが、ポーランドに行くとワルシャワの空港名から紙幣の絵柄まで、町おこしのシンボルになっている。正に国の宝であるが、そんな彼は21歳の時にパリに移っているから、過ごしたのは若い時だけである。

以降は肺結核を患い、リストの娘で後のワーグナーの妻になるコジマと付き合った。ただ二人の関係は喧嘩ばかりしていたようで、寒いパリを離れで過ごしたマヨルカ島でもそれは続いたと、何かで読んだ記憶がある。

ショパンとは、ポーランドの生家とパリのペール・ラシェーズのお墓を訪れて以来、線が繋がったようで身近な気分になっている。ただ荒涼としたポーランドの大地からどうしてあんなインスピレーションが生まれたのか、恵まれなかった私生活からどうしてあんなリズミカルで甘い旋律が生まれたのか、未だに良く分からない。

Saturday, 23 October 2021

振顫譫妄症ビール

ピンク・エレファントというベルギーのビールがある。名前の通り、ピンクの象がモチーフで象肌の瓶に入っている。飲むとフルーツ風味だが、アルコール度が8.5%もあるのでいつも飲む時には気を付けている。最近は日本でも色々なドラフトビール生産が増えビール党には嬉しい限りであるが、時々贅沢をしよう思った時に手が出るのはこの一本である。


ところが「ピンク・エレファント」とは愛称で、ボトルに付いている正式な銘柄は「Belirium Tremens」である。日本語に直すと振顫譫妄症(しんせんせんもうしょう)と聞き慣れない言葉になる。意味する処は「アルコール中毒による発汗、震え」という。今更だが、よくもこんな名前をラベルに刷り込んだと感心してしまう。

ただベルギーでは今だにビールが修道院で作られている事を思うと、ひょっとして医薬品の一種かとも思ってしまう。普通のビールのアルコール度は5%程度なので、日本なら昔のメチルアルコールに近い。確かにその晩は急に酔いが廻った。

ベルギービールの銘柄は市中に出回るレフ(Leffe)のように、醸造寺院や僧侶の名前を冠するものが多く、ただ中には変なものもある。例えば「酸素効率化ビール(Oerbeer)」、「聖杯(Holly Grail)」、「戦略的核ペンギン(Tactical Nuclear Penguin)」など、ふざけた名前はベルギー出身の女優を捩った「オードリー・ホップバーン(Audrey Hopburn)」や「トランプハンズ(Trump Hands)」などもある。「シトラじっとしていろ(Citra Ass Down)」に至っては訳不能なので、いつか識者に聞かないと分からない。

こう考えると、奇をてらった商業戦略のような気もしてくる。元々湿度が低い国だから、日本の夏の様にガブガブと飲む風土ではない。大事な時に賭ける一杯かと思うと、少し分かってくるが・・・。

Monday, 18 October 2021

ユダヤ・コレクション

今から8年ほど前だったか、ミュンヘンのアパートで大量の絵画が発見された。戦時中にナチが略奪した物で、その数は1200点、額にして10億ユーロ相当もあった。隠匿者の老人は長年その作品を売っては生活の足しにしていたという。

ナチの盗んだ絵画は今でも10万点以上が行方不明と云われる。背景にはヒットラーが画家志望であった処から、将来オーストリアのリンツに大美術館を建設する夢を持っていたとか、ゲーリングがその向こうを張って美術収集に凝ったとか色々な説があるが、いずれにしても国家ぐるみの事業だった。

バート・ランカスター演じる映画「大列車作戦」は、こうした移送を阻止する鉄道レジスタンスの話だったり、「ミケランジェロ・プロジェクト」もその手の類の作品で、宝探しのような感覚があるのだろうか、未だに数多くの小説・映画で取り上げられている。

随分前になるが、フランク・マクドナルドの「Provenance(ユダヤ・コレクション)」という小説もその一つだった。中野圭二氏の素晴らしい訳で読んだ事があるが、こちらもゲーリングから委託された元ナチの将校が戦後も隠し持つ話であった。彼は預かった大量の絵画をローマのカタコンブに隠し、本人は僧侶になって守り通した。ただいつかカネに変えなければ宝の持ち腐れである。問題はいつ誰を通して現金化を図るか、そこで出て来るのが画商であった。その大物画商が動き始める辺りから綻びが出て来るのだが、絵画を追うと戦前戦後が繋がるから面白い。 

物語の中にはパリの公共競売所、オテル・ドルオーも出て来る。フランス語の数さえ発音出来れば、誰でも参加できる至ってオープンな競り市である。何百円のガラクタから高級家具まで、午前中に下見をして午後のセリ参加するのだが、もの凄い速さで回転するのでお目当てを定めないと逃してしまう。競り落とすとその場で決済して直ぐに持ち帰るから、慣れて来るとショッピング感覚で参加できる。私の場合、お目当ては数万円程度の風景画であった。年代物も多く素人にしては立派な作品も多いので、画廊や蚤の市で買うよりお得感があった。出品者の多くは遺産の処分や転居・転業であるが、中にはこうした盗品紛いもあったかも知れない。

Saturday, 16 October 2021

ユニークな子供達

子供の頃、文京区の目白に住んでいた。細川庭園や山縣有朋の椿山荘など、緑多い環境に遊び場には事欠かなかった。今の聖マリアカテドラル大聖堂が建っている場所は、空き地でよく草野球をした。近くの銀行の頭取宅には大きな池があったので、守衛の目を盗んでは忍び込みオタマジャクシなどを捕った。

田中角栄邸もあった。まだ切り売りする前の広大な敷地で、勿論入った事はないが、小石川高校出のインテリ八百屋が様子を教えてくれた。彼は卒業して実家を継ぎ、その経歴が角栄さんに気に入られた。角栄さんの威力は町内会のお祭りにも発揮され、お神輿を担ぐと沢山のお土産が貰えた。

地元の公立小学校は、今から思えばユニークな子供たちが多かった。食堂をやっていたK君の家は貧しかった。だから服は普段着と体操着の2枚しかなかった。体操の時に普段着を、普段の時に体操着を着る姿に子供でもそれは分かった。クラスの親分は質屋の女の子だったり、在日のS君もいた。S君は体が大きく手を振り上げては頭を掻く仕草で威嚇するのが癖だった。洗濯屋、印刷や、乾物屋、薬屋など店の子供が多く、畳屋のH君もいた。H君は大きくなって実家を継いだが、銀座のイタリアンでクラス会をやった時、仕事着でやって来て入店で断られたのには申し訳ない事をした。

そんな思い出一杯の目白だったが、最近テニス仲間で雑談していたら「俺も目白に住んでいたんだ!」と何人かが名乗りを挙げてきた。和敬塾から本郷に通っていたKさん、日本女子大裏に下宿していた早稲田のSさん、都電の江戸川橋に住んでいたNさんなど、写真家のKさんも同じ学校の先輩だと分かった。「コロナが晴れたら目白で飲みましょう!」とう事になっている。そろそろその時が訪れそうで楽しみである。

Thursday, 14 October 2021

No Time To Die

007の新作「No Time To Die」が公開されたので観に行った。子供の頃から見続けたジェームズ・ボンドも今回で25作目という。今回で最後になるダニエル・クレーグも52歳なら、ジェームズ・ボンドも退役生活を送っている処から始まるなど、シリーズも終わりに近づいてきた感がした。観る方も歳をとってきたせいか、激しいカーチェイスや銃声、爆音を聞いているとどっと疲れるようになった。若い頃は劇場から出ると、暫くジェームズ・ボンドになり切っていたので隔世の感である。

その新作だが、冒頭に古いイタリアの町が出て来た。どこかで見覚えがある風景で、初めはシシリア島かと思った。帰ってからロケ地を調べてみたら南部のマテーラ(Matera)だと分かった。石灰岩の山肌を切り抜いた洞窟に人々が暮らしている町である。もう30年近く前になるか、実際に行ってみた時は洞窟に住んでいたのは怪しげな人達で、怖くなって退散した記憶がある。

もう一つはカーチェイスを繰り広げる森と川である。「あれ?これってSkyfallの時と似ている」と思ったら、やはりスコットランドだった。ただあの時はグレンコーで今回はケアンゴーム国立公園だった。グレンコーはそれは美しい渓谷が続き、スコットランドの悲劇と重ね合わせると神聖な気持ちになる場所である。ただ今回のケアンゴームは、ウィスキー醸造所が立ち並ぶ海沿いから内陸に入り観光ルートから外れていたので知らなかった。
 
007の映画はロケ地を巡る裏話やこぼれ話が面白い。昔日本が舞台になった「007は二度死ぬ」では女優の若林映子が泳げないのでショーン・コネリーの奥さんが代行したとか、スタッフの帰りの便が墜落したとか、随分前に撮影の村となった鹿児島の坊津町の記念碑を訪れてから急に身近になった。あれから数多く出て来るラブシーンも、前で奥さんが見つめる中の撮影かと分かり、ジェームズ・ボンドも楽ではないと思うようになった。

Tuesday, 12 October 2021

カウラのイタリア人

オーストラリアを旅していると、よくイタリア人の話に出逢う。例えばケアンズ郊外にイニスフェイル(Innisfail)という町がある。ゴルフをしに行ったのだが、そこは草競馬場だった。どうやら競馬とゴルフを兼ねているらしく、面白い事に競馬トラックの中からスタートし、一度馬場を出て最後はまた戻って来るという、いかにも地元のパブリックコースだった。

その日は終わって真っ直ぐ帰ったが、後でイタリア人が多く住んでいる町だと分かった。第一次大戦が終わった1920年代に、マルタ島、ユーゴスラビア、ギリシャなどから移民がやって来て、中でも多かったのはイタリア人だったという。

もう一つはカウラ(Cowra)の収容所である。カウラはシドニーから300Km内陸に入った処に残る広大な捕虜収容所跡である。ここには太平洋戦争時に1000名程の日本人捕虜がいた。終戦の一年前に集団脱走を図り、半数近くが命を失った場所である。実際に行ってみたが、仮に脱走できてもどうやって国に帰るのか?その馬鹿げた事件の陰には偉ぶった扇動者がいたと聞いて腹が立った。犠牲になった多くは若者も含めた軍属だった。500人近い犠牲者が眠る立派な墓を現地の人が管理していると知り、供養に行ったが頭が下がる思いだった。

ところでそのカウラ収容所には、当時同じ数のイタリア人捕虜もいた。彼らはのんびりと戦争が終わるのを待っていて、勿論脱走は晴天の霹靂で傍観していた。そのお国柄に「やっぱりイタリア人だな!」と思ったが、一体彼らはどこから来たのだろう?

先日たまたま読んでいたアラン・ムーアヘッドの「砂漠の戦争」という本でその事情がよく分かってきた。それはドブルク、ベンガジ、エル・アラメーンなど、我々にとって殆ど馴染みがない地名だが、北アフリカ戦線の激戦地である。英国軍の奇襲にイタリア軍は殆ど降参し、その奪回を図ったのがロンメルだった今のリビアである。その時に捕虜なったイタリア兵士の内、14000人がオーストラリアに送られて来たと言う。カウラの収容されたのはその一部だったようだ。捕虜の何人が母国に戻らず住み着いたのか分からない。その辺、又現地に行ったら聞いてみたいと思っている。

Monday, 11 October 2021

ガリポリの映画

そのガリポリを舞台にした映画「The Water Diviner」は中々いい作品である。オーストラリア人の父親が、ガリポリで戦死したとされる息子を探しに行く話である。ラッセル・クロウ演じる父親は、2人の息子が死亡した場所を発見し、残された最後の一人も生存している事を遂に突き止めるのであった。タイトルの意味は「占い棒で地下水脈を探す人」である。その直感を頼りに息子を探すのであるが、改めて親の愛の深さに触れたのである。生きていた息子は、兄弟を失った自責の念からずっと現地に留まっていた。日本人も「ビルマの竪琴」のような人も多かったから、戦争を境に人生が変わるのは万国共通のようだ。

映画に出て来るオスマン(今のトルコ)人は薄汚く野蛮に見えた。着ている制服は野暮だし、口ひげは不潔な感じがしてアラビアのロレンスに出て来た男色を連想してしまう。確かに夜寝ていると突然コーランが鳴り響くお国柄は、以前イスタンブールに行った時にも感じたがやはり我々からみても異文化である。ところが今度は同じガリポリをテーマにしてトルコが作った映画「The Battle Of Ocean」を見ると、事態は全く反対に映るから分からない。オスマンにとっては正に自国防衛戦で、遥々やって来た連合国は侵略者に思えてくる。終わってみればどちらも多くの家族を失った現実だけが残る事を思うと、やはり戦争は空しいの一言だ。 

今のガリポリはイスタンブールからのツアーも出ている一大観光地のようだ。オスマン帝国はあまり関心がないので行く事もないだろうが、戦争が終わった頃は遺骨収集が続いたので立ち入り禁止区域だった。映画でもその様子が描かれていて、時間の経過を感じるのであった。

Sunday, 10 October 2021

オーストラリア人とガリポリ

先日、オーストラリア政府がフランスとの潜水艦契約を破棄し、代わりにアメリカとの新たな契約を結んだ。どうやら中国の予想外の台頭に、ディーゼルから原潜に切り替えざる理由があったようだが、一方的な転換にフランスは激怒し大使を帰任させた。血は争えないと云うが、改めて英語圏の結束の強さを感じた事件だった。

思い出したのは、メルボルンの戦争博物館である。一昨年旅の途中で訪れたが、ゼロ戦を始め太平洋戦争の日本戦利品コーナーの立派さには驚かされた。特に目を引いたのは、第一次大戦でオーストラリアが初の海外遠征を行ったガリポリ(Gallipoli)の戦いであった。

オスマン帝国のガリポリ半島争奪を巡る戦いは、双方60万人近い負傷者を出す消耗戦であった。中でもANZACと称するオーストラリア・NZ連合軍の被害は大きく、オーストラリア軍の場合、派遣した5万人の内3万人近くが死傷する事態になった。何かの本で「ガリポリは気味悪い響きがする」と書いてあったが、その犠牲は予想外に大きかった。
 
当時のオーストラリアにとって、欧州での戦争は遠い地球の裏側の話だった。そのため遠征にはカンガルーまで同行し、ピラミッドの前で記念撮影するのんびりムードがあった。戦後はPKOなどを除けばオーストラリアが戦争に巻き込まれる事態はない。ただいざという時には西側、取り分け英語圏の一員としての責任と義務が付きまとう。その原点となっているのが、ガリポリの記憶である。