Saturday, 10 July 2021

フィクションの会津

先日福島に行った帰り、会津若松に寄った。NHKの「八重の桜」に感化された訳ではないが、戊辰戦争のメッカに一度行ってみたかった。実際に行ってみると、余りにも観光チックなフィクションに驚いた。例えば白虎隊である。多くの少年武士が忠義を尽くして殉死したと思っていたが、実は総勢343名の内、戦死・自刃はたった53人であった。つまり290名は生き延びたのであった。ところが現地では、特に自刃した20名の墓と自刃場所が観光スポットになっていて、全く違う印象を持つのであった。 

武家屋敷もそうだった。家臣の西郷頼母という屋敷を再建し、大型の観光バスの停まれる程のこちらも観光スポットである。ただ立派な屋敷も去る事ながら、ここで驚かされたのは頼母の妻と子供5人を含む12名の婦女の自害であった。戦局の不利を悟り、白装束に身を包み辞世の句を最後に幼子を突く母親の人形姿が痛ましかった。ところが主人の頼母と長男はその前に会津を脱出し、明治維新後も生き続けたのであった。これは男として武士としてもとんでもない話である。それにも拘わらず、武家屋敷ではその事に全く触れていないのであった。

そもそも藩主の松平容保もよく分からない人だった。幕末に京都守護職を拝命し新選組と一緒になって幕府を守ろうとしたが、鳥羽・伏見の戦いが始まると、最後の将軍徳川慶喜と共に大阪城から船で江戸に逃げ帰ってしまった。家臣は夜が明けると大将がいない事にビックリ、その敵前逃亡が切っ掛けで藩主を一時クビになった。その後の会津の戦いでも、籠城を続けた挙句、最後は降伏して城を明け渡している。外では多くの会津藩士が血を流している最中、家臣からも「腹を切れば収まる」と進言されたのを拒絶したという。維新後も日光の宮司で余生を送るなど、凡そ武士たらん人だった。 

会津の住民は維新後に斗南(となみ)藩という名で、約17000人が下北半島に強制移住させられた。いわば流刑であった。という事は、今の会津の人は外から来た人なのだろうか?フィクションの歴史を平気で受け入れる感覚はその為だろうか?と思ってしまう。

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