Thursday, 29 April 2021

ゴルフ倶楽部のパブリック化

先日、所属しているゴルフ倶楽部から手紙が来た。開けてみると、パブリックに移行する事が決まったので退会届を出してくれと書いてあった。突然の知らせに驚いた。その倶楽部は会員数が700人程度と少なく、いつ行ってもプレー出来るメリットは大きかった。OBの白杭が殆どないゆったりしたコースで、富士山に向かって打つ快感が何とも言えなかった。ただ経営的には厳しかったようで、昔は会員の紹介以外の人は廻れなかったが、数年前から一般の人を受け入れるようになっていた。

思えばバブル時には会員権が4000万円にもなった名門コースである。経営も三菱系なのでまさかこんな事になるとは夢にも思わなかった。会員権を高いお金を出して買った人は嘸かし無念だと思う。私の場合は親の相続で入ったので幸いそれはない。40年近く前に父親が亡くなり遺品を整理していると、その倶楽部の会員権が出て来た。確かによくゴルフをやっていた人なので、家には優勝カップも多かった。名義を書き換えるには2名の紹介者が要ると聞き、故人と関係のあった人にお願いした。大会社の重役室に出向き、今から思えば図々しく紹介状を書いてもらったのが昨日のようである。 

会員制がなくなると、当たり前だが会員同士の繋がりが無くなる。時代の流れとはいえ、倶楽部を通じた適度な距離感や連帯感は何とも言えない財産だったから寂しい。ただ名門と言われるスコットランドのセント・アンドリュースや、アイリッシュオープンのキレネーなどは勿論会員制の倶楽部である。一方で旅行者が予約なしでブラっと寄り空いていればいつでも回らせてくれる懐の深さもある。その辺の両立が出来なかったのだろうか?時代の流れとは言え、何か惜しまれてならない。

Tuesday, 27 April 2021

皇族との結婚

小室圭さんと眞子様の結婚が混迷を極めている。婚約してから4年も経つのに、未だに母親の金銭トラブルが燻っている。先日は留学先のNYから長文の心境を公表し、借金は返さないと公表した。だのにその直後、今度は返済すると言いだし世間の不信をかった。秋篠宮はまだまだ納得していない様子だし、小室さんも試験に受からないと収入の道が立たないから道険しである。それにしても眞子様は痛々しい程忍耐強い。お金の問題と言ってもたかだか4百万円である。誰かポンと出してくれる人が現れないものだろうか?

それにしても皇族と結婚しようと思うのは勇気がある事だ。人によっては「そういう(皇室好きな)人って世間にはいる」みたいに云う人がいるが、学生時代の巡り合いだからきっと純粋なのだろう。そんな巷の話をしていたら、誰かが「その内NYで交通事故でも遭わなければいいが・・・」みたいな物騒な話をする。「まさかCIAではあるまいし、それはないでしょう!」と言うと、「いやいや雅子さんの例もあるからな」と言う。「それどういう事?」と聞くと、「雅子さんには皇太子と結婚する前に付き合っていた人がいた。外務省の同僚で、別れさせられた挙句イラクで殺害されてしまった!」と。どうやらあのラグビーで有名な参事官と分かった。「でもそれって雅子妃が結婚して暫く経ってからだよな?」と言うと、某氏も「そうだな・・」と考え込んでしまった。 

確かに英国ならばあり得る話かも知れない。いい例があのダイアナ妃である。ダイアナ妃はアラブの御曹司と付き合い身籠った事で、王室から不浄とされた。今のウィリアム王子と結婚したメーガン妃に似ているが、生まれればロイヤルにアラブの血が混じったから由々しき事態であった。未だにMI6説が消えないのはその為と思っている。やや不謹慎な話になってしまったが、ここまで来たならハッピーエンドを迎えて欲しい。



Friday, 23 April 2021

田中邦衛さんを偲んで

先日、俳優の田中邦衛さんが亡くなった。「若大将シリーズ」では沢山笑わせてもらい、「北の国から」では何度も涙を誘われた。思えば随分と長い間楽しませて頂いた。心からご冥福をお祈りしたい。それにしても田中さんは若い時から年の割には老けていたので、歳を重ねても殆どその風貌が変わらない不思議な人だった。NHKのアナウンサーをやっているお嬢さんを見るにつけ、立派な家庭人でもあった事が偲ばれる。

そんな懐かしさも手伝って、久しぶりに若大将のDVDを観てみた。何度繰り返して観ても飽きないのは、そこには同じ青春があったからかも知れない。田中さん演じる青大将は御曹司の設定である。大学にはその頃同じように、親の威光を傘にしたバカ息子も多かった。又日本橋の老舗の後継もいた。そんな親近感から特に好きだったのは、飯田蝶子演じるすき焼き屋「田能久」のおばあちゃんである。自分が祖母をとても慕っていた事もあり、孫との関係が蘇ってくるのである。いつも有島一郎演じる久太郎に向かって、孫の味方をするのが何とも快かった。そんな口癖の一つが、「おまえは商業高校出だから視野が狭いね!」だった。孫可愛さから出た言葉だったが、それがその後思わぬ処で裏目に出る事になった。

会社に入って間もなく、その商業高校出の人が上司になったのであった。大学の出身校でも序列が厳しい中、況や高卒しかも商業高校は予想外の遭遇だった。お蔭であまりいい関係が築けず逆に虐められた。あの言葉が心に染み込んでいたから仕方なかったが、やはり辛かった。今ならもっと上手くやるのだが、そんなどうでもいい事を思い出した。

Thursday, 22 April 2021

モノクロ映画で旅気分

昔のDVD映画が安く簡単に手に入るので有難い。最近は1940年~50年代のイタリア作品に凝っている。ざっと見た作品を挙げると、「揺れる大地」「苦い米」「神の土地」「子供たちは見ている」「白い酋長」がある。多くが戦後の荒廃した時代のモノクロ映画で、貧しさの中で逞しく生きる姿は、同世代の吉永小百合や浜田光夫に通じるものがある。

兎角イタリア人というと、陽気でいい加減で女の尻ばかり追いかけているイメージがあるが、実は家族的で用心深くで閉鎖的な社会に生きている事が分かる。例えば「子供たちは見ている」は妻の浮気に頭を痛める親子の話だが、夫はその事をアパートの住民に悟られる事を何より恐れていたし、住民も調味料を借りにくる振りをして妻の在宅を確かめていた。また「白い酋長」は田舎からローマに出て来た新婦が役者を追って失踪するコミカルな物語だが、夫は親戚でローマの名門の叔父の家名に泥を塗る事を何より気に掛けていた。誰かが「イタリアサッカーが守り中心なのは、その貧困から来ている」と言っていたが、それに通じるようなものを感じた。そして何よりその光景は日本的で、とても共感を覚えるのであった。 

 映画を見ているとちょっとした旅行気分になってくる。「苦い米」の舞台はミラノ近郊のVercelliで、北に行けばコモ湖などの湖水地方、東はベルガモの処だった。今回のコロナで最も感染者が出た場所だが、水田が続くフラットな地形と関係したのだろうか?「子供たちは見ている」はやはり北イタリアの港町Alassioで、西に車を走らせればサンレモを抜けてフランスのコートダジュール海岸に出る景勝地だった。いつかこのルートを走ってみたいと思っている場所で、華やかさの陰にこんな物語があったのだ。「白い酋長」はローマだが、「神の土地」や「揺れる大地」はシシリー島とその沖合のストロンポリ島だった。この南イタリアは今でも貧しい所だが、旅行者には古代を感じる極めて情緒的な場所に映る。特にシシリー島は今まで旅した中で一番思い出深い場所だった。コロナで海外旅行は当分お預けなので、暫くはこうして楽しんでいる。

Monday, 19 April 2021

バルト海の魚

政府はいよいよ、福島第一原発の汚染水を海洋放出するようだ。いつまでもタンクに貯めておく訳にも行かないのだろう。安全性については国を信じるしかないが、本当に飲んでも大丈夫なのだろうか?やはり不安は尽きない。

思い出すのはバルト海の魚である。バルト海は飛行機で空から見るとよく分かるのだが、赤潮で海が真っ赤に染まっている。プランクトンが大量に発生しているからで、赤い絵の具を流した光景が広がっている。それもあってか冬でも海が凍る事がないので、ロシアは昔ここにバルチック艦隊の軍港を造ったくらいである。魚の生息も当然少ない。加えて工業汚染も囁かれている。中でも1986年に起きたチェルノブイユの原発事故の汚染水が、今でも川を伝ってバルト海に注がれる噂は尽きない。これも本当かどうか素人には分からないが、色々な人が言っていた。 

だから人々はバルト海で泳ぐことはしないし、バルト海の魚も食べない。もともとゲルマン系の人は魚を食べる習慣がない事もあるが、市場に並んでいるのは北海で捕れるタラやサケである。ただニシンやマスなどの川魚は食べる。こちらは市場に大きな水槽を乗せたトラックがやって来て売っていた。福島沖の魚は食べない風評も心配だし、原子力と付き合うのは本当に悩ましい。

Thursday, 15 April 2021

G・オーウェル考

中国や香港で当局が監視カメラを使ってデモ隊を鎮圧するのを見ていると、ジョージ・オーウェルの未来小説「1984」を思い出す年配者は多いだろう。有名な「ビックブラザーがあなたを見ている(Big Brother Is Watching You)」はそれを端的に物語り、3つのフレーズ、「戦争は平和(War is Peace)」「自由は隷属(Freedom is Slavery)」「無知は力(Ignorance is Strength)」も今に十分通じている。

この言葉が意味するところは、戦争は国民の結束を高め、爆弾が降って来ない限りは平和を実感出来るし、戦争が続いている事すら忘れる時がある。戦争は経済的には富を生み出す訳ではないから再分配もない。これにより、労働者は本来受け取れるはずの富が得られないので恒久的に下層に据え置かれる。人はビックブラザーの言う通りに行動している限りは自由が保障されるし、ビックブラザーは完全で間違わないから決して疑ってはならない・・・と。一見今的には逆説的なメッセージとも思えるが、気が付けば民主国家にも当てはまるから驚く。 

書かれたのが1948年で今から73年前、凄い先見である。当時のソ連を想定していたと言われるが、最近読み返してみると、その赤裸々な描写はオーウェルが生まれ育ったインドのカースト社会が影響していたのではないかと?思えるようになってきた。インドには一度しか行った事はないが、空港の通路で川の字になって寝る家族や片腕がない人など、その貧困は東南アジアの比ではなかった。何より人々は生まれた時から代々続く職業に就く宿命が待っていて、その運命から逃れる事が出来ないと聞いた。汚水を代々掃除する男を見た時、インドの真の姿を知ったのである。

Tuesday, 13 April 2021

マスターズの優勝

松山選手が遂にマスターズで優勝した。一時は2位に5打差があったので途中まで楽勝かと思っていたが、終わってみれば1打差の辛勝であった。終わってからのインタビューで「緊張していた」と話していたが、彼みたいな人でも固くなるのか思った。大変な快挙に、解説の中島常幸などの歓喜の声を聞いている内に目頭が熱くなってきた。

勝因は3日目に大きくスコアを伸ばした事が大きかった。ただ運も味方した。最終日のサンデーバックナインに入った13番パー5で、ティーショットが大きく左に曲がり林に突っ込んだ。幸いボールは木に当たりコースに出て来た。それもグリーンを直接狙える好位置だった。そして打った第2打、今度は飛び過ぎてグリーンをオーバーした。あわやツツジの茂みに突っ込む手前で跳ね返り戻って来たが、入っていればアンプレアブルで2打罰となる処だった。ここをバーディーにしたが、その後15,16,18番でボギーになったので、この2つのラックが無ければ勝てなかったかも知れない。 

 オーガスタは前週に女子アマで、やはり日本人の高校生が優勝した。一昨年の全英の渋野といい、日本人選手の頑張りに嬉しい限りである。

Saturday, 10 April 2021

レジリエンスとG.オーウェル

町を歩くと、レジリエンス住宅という広告を見かける。聞き慣れない言葉だが、災害や停電が起きた場合に、貯えた電池で急場を凌げる住家らしい。調べてみると語源のレジリエンス(Resilience)は変化に対応する能力という。ストレスやネガティブな環境から自助で回復する人間の再生能力を意味するらしい。確かにヒトは戦争や災害で家族や家を失ったり、入学試験に落ちたり夫婦の別離があっても、時間と共にそれを乗り越えて行く力を持っている。学者が発見し機微を頭のいい人が借用した今の新語に、時代の風を感じたのであった。

新語の発するインパクトは大きい。たまたま読み返していたジョージ・オーウェルの未来小説「1984」にも、当時の時宜を得た言葉が多く出ていた。書かれたのは1948年だから半世紀以上も前である。それが色褪せないから氏の凄い先見性を感心するが、その言葉の一つが犯罪中止(Crime Stop)である。懐疑的な態度を誘発する思いを、身に付けた精神的規律で事前に圧殺する思考である。つまり自制であるが、例えば今風に言えば会社のやり方が間違っていると思っても、社員はそれを批判すると自己の立場が悪くなるので躊躇してしまうのに似ている。ただ我慢すればどこかに不満が溜まってしまい、いつかそれを爆発させたくなるものだ。それを彼は2分間憎悪(Two minutes hate)と名付けた。つまり2分間は許された本音の時間であってそれが過ぎてはならないという制約である。今もサッカー場で一時観客が憂さを発散し盛り上がるのはそのいい例である。また有名な二重思考(Doublethink)もあった。相反する二つに意見を矛盾するとは知りって受け入れる思考である。文中でも2+2≠5を例に使っていたが、正しくない事と分かっていてもダブルスタンダードを受け入れるのがヒトの心である。上司の言葉は誰も逆らえないから内部消化するのである。 

 オーウェル的に考えれば、レジリエンスがある限りヒトはいつか再生して元通りの精神状態に戻ってしまう。だから仮に買った住宅が思うような省エネ効果が出ず元が取れなくても、最初は裏切られた気分になるかも知れないが、次第に当初の期待を忘れるのである。これは恐ろしい事で、その原理を知る者にとってはとても都合のいい仕組みになる。

Sunday, 4 April 2021

不快な車内アナウンス

感染対策の一環で、飲食店がBGMの音量を下げ始めたという。人の会話も控え目になり飛沫の量も少なくなるから、とてもいい試みだと思っている。予てから都会の人工的な騒音には辟易している者にとっては嬉しい限りである。この際、飲食店のみならず公共の場で適用をドンドン進めて欲しいものである。その最たるものが電車の車内アナウンスである。

電車に乗るたびに、「次の駅〇〇です」というアナウンスに、「知っているよ!煩いなあ」と心の中で叫んでいる。毎日通勤通学で使っているから子供でも分かるのに、どうして誰も煩いと思わなのだろうと不思議である。それもボリュームは大きいし、最近ではコロナ感染の蘊蓄まで加わったので放送は一層長くなっている。車内だけでなく到着駅も同じだ。「〇〇駅です。お降りの方はお忘れ物ないように・・」は、昔東北からの長旅で上野駅に着いた人に使うフレーズである。例え京王線の終着は新宿であるが、押し出される人の中にここが新宿かどうか疑う人は皆無なのに。新幹線はもっと酷い。駅に止まる毎に行先と停車駅のアナウンスを繰り返して、それも日本語と英語で2回聞かされる。呪文のようで、本を読んでいる本当に不愉快になる。 

そんな事を感じるのは、ヨーロッパの鉄道に乗ってからである。駅や車内のアナウンスが殆どなく、電車は駅にスッと入ってきて、いつの間にかドアが閉まり出発する。車内放送も最低限で、その静かな環境はとても快適であった。中でもドイツやスウェーデンは素晴らしく、フランスのTGVも静かだった。ロンドンの地下鉄はMind the gap!(足元に注意)を繰り返すので少し騒々しかったが、郊外の電車はやはり静かだった。静けさを知ると、その国の民度と成熟度に辿り着く。たかがスイッチを切ればいい話である。早くこの事に気付いて欲しいと心から思っている。

Thursday, 1 April 2021

胃はデリケート

愛犬が急に食べなくなった。いつもの食べ慣れたドックフードだが、特別にミルクを掛けてやっても見向きもしない。もう9歳になろうとしているゴールデンレトリバーである。寿命は10年ちょっとというから遂に来るべき時が来たのだろうか?それにしても変化は突然やってくるものだ。しかしひょっとして味に飽きたのだろうか?3日位して試しに高価なゼリー状のドックフードをやってみた。すると「待ってました!」とばかり食べ始めたのには驚いた。少しホッとしたが、嫌いなモノは頑として受け付けない老犬ならではの知恵だった。

人間も同じである。病気の時は特にそうだが、環境が変わると食べられない事がある。いい例が東南アジアに赴任した人の現地食である。初めは抵抗感があるが、毎日親しんでいる内にすっかりローカルフードのファンになってしまう駐在員が多い。ところが不思議なもので、いざ帰国の辞令が出るとその途端に喉を通らなるという。やはりどこかで頑張っていたのかも知れない。現地化意欲は騙せても味覚は嘘を付かない。 

食に厳しいのはインドやイスラムの人達である。ヒンズー教は牛、イスラム教は豚が駄目である。来日したインド人と良く食事に行ったが、カレーに入っている肉を時間を掛けて取り除くのには参った。ユダヤ人には寿司屋でカニを出して失敗して以来、甲殻類はご法度だと知った。ただ多くの人はそれらしき固形物がある時は避けるが、目視出来ない原料まではあまり気にしないようだ。日本で食を堪能している様子を見ていると、その辺の使い分けを上手くやっている。気は心、それにしても胃は思いの外デリケートである。