Wednesday, 27 January 2021

チベットとリチウム

ウイグルと並ぶもう一つの少数民族はチベットである。チベットと言えばダライ・ラマ、先日その自伝「The Dalai Lama, Freedom In Exile」を読んでみた。随分と前の本だが、24歳の時に毛沢東の圧政を危惧してインドに亡命した経緯や、漢人とチベット人では言葉が通じないので通訳を介したなど興味深かった。伝わる人物像は、極めて普通の人だった。彼は今年で85歳、外からチベットの象徴として活動していて、その国際的なネットワークこそがウイグルと決定的に違うと思った。
 
チベットを巡る中国の意図は、世界一の埋蔵量と言われるリチウムなど鉱物資源の確保である。また核実験や放射性物質のゴミ捨て場としても重要らしい。聖地のラサも今では観光地になっているようで、飲み屋が立ち並び売春婦で溢れていると言う。ブラッド・ピットの映画「Seven Years in Tibet」で見た頃のラサとは大分変わったようで、さぞかしダライ・ラマの心中も穏やかでないことを察した。

 昨年すっかりファンになった歴史家の宮脇淳子氏が、ウイグル、チベット、モンゴルなど少数民族に言及していた。少数民族(漢民族を除くそれ以外の民族)は人口にして1割にも満たないのに、面積では44%を占めるという件である。つまり彼らが独立してしまうと、中国国土は半分になってしまう現実である。だからこそ共産党も躍起になっている。

Tuesday, 26 January 2021

ウイグル地区のジェノサイド

先日、退任を前にしたポンペオ米国務長官が、中国共産党について言及した。その中でウイグル自治区などの圧政の触れ、「これはジェノサイド(民族浄化)だ」と非難して話題になった。ウイグル自治区については、以前から強制収容や不妊手術などが漏れ聞こえていたのでさして新しいニュースではなかった。ただ今や入植を続ける漢人とウイグル人の数がほぼ同じになってきたので、本当に民族が消滅しようとしているのかも知れない。

ジェノサイドと言えば、何と言ってもナチスのユダヤ人殺害である。3年前にポーランドの強制収容所巡りをした体験から、何か今回のウイグル自治区と似たようなものを感じた。

一つは首都から遠く離れた人目に付かない土地柄だから成せる技である。香港や台湾なら出来ない事でも、ウイグルやチベットなら隠せる人の心理である。ユダヤ人の収容所はドイツ国内のダッハウやチェコのプラハ郊外のテレジンなどにもあるが、それは経由所で何日か滞在した後に最終処理場のポーランドに送られた。有名なのはアウシュビッツであるが、近くに旧都のクラコフがあるので人目に付き易かった。そのため更に奥地のソ連国境に沢山の施設を作った。例えばトレブリンカやマイダネクなど、とても全てを廻る事は出来なかったが、その敷地面積はアウシュビッツの比ではなかった。ただでさえも何もないポーランドの大地にあって、これ以上寂しい場所はなかった。  

もう一つは差別意識である。ユダヤ人の場合は劣等民族だったし、今回のウイグル人も(漢民族から見ると)下等市民になるらしい。大量殺害が本当ならば、大きな犯罪である。それこそ中国人が言うメンツが潰れるし、党の存続にも影響するだろう。どこまで隠し通せるか?将又どこまで事実が解明されるか?一見小さなようで実は大きな問題に思える。

Sunday, 24 January 2021

忌避の申し立て

随分昔のことになるが、近所の老人が道で倒れた事があった。すかさず通り掛かった人が起こそうとすると、その老人は手を振り払って”余計なことはするな”とばかり立ち去って行った。その人は元軍人だったという噂があったので、プライドが許せなかったのだろうと囁かれた。もう今ではお亡くなりになっているが、立派な門構えと表札だけは残っている。

そのご隠居だが、児島襄の「東京裁判」を読んでいたらY大佐として登場していた。裁判も佳境に入った頃、反証の証人として海軍を代表する一人として出廷した。戦後は海上自衛隊で中将まで上り詰めたので、偉い軍人だった事も分かった。 

その東京裁判だが、改めてこうして読み直してみても、裁判とは名ばかりの制裁にしか思えない。明治から正当な過程を経て得た満洲から撤退しろというのは、やはり理不尽な要求であった。あの時開戦以外に選択肢はあったのだろうか?今でもその疑問は解けない。つくづく江戸末期の開国から始まり、欧米諸国に翻弄された日本の運命を痛々しく思えてくる。その裁判では「忌避の申し立て」という件があった。あまり聞き慣れない言葉だったが、中立性を欠く場合に使われるようだ。清瀬という日本の弁護人が「裁判長のウエッブ卿がニューギニアの日本軍不法行為を調査した」事を理由にそれを申し立てた。当時の置かれた状況の中で、中々気骨のある人がいたと感動した。

Friday, 22 January 2021

CurveとCarve

スキーの季節である。ただ今年は緊急事態宣言が出ているので自粛すべきだろうか?将又GoToキャンペーン中止の折だから、地方経済に少しでも貢献するのも大事である。所詮は空気の綺麗な自然の中で、三密の雑踏に行くのとは訳が違う。散々悩んだ挙句、やはり行ってみる事にして、こっそり恒例の越後湯沢を訪れた。

案の定、街は人気がなくスキー場もガラガラだった。ゲレンデも殆ど貸し切り状態で、その割には朝になると圧雪を普段通り行っていたのには頭が下がった。ホテルも通常通りの営業でしかも半値だった。客は殆どいないのに温泉はかけ流しだからジャージャー流れている。何ともったいない!夜は地元の山菜を肴に緑川を楽しみながら、「何もここまで徹底しなくてもいいのになあ?」と思った。 

スキー板はいつも持参せず、地元のレンタル屋で借りる。スキー場まで無料で送り迎えしてくれるからだ。常連なので最新の板を用意してくれるのが有難い。今回もカービングのいい板を出してくれた。随分前になるが、仕事仲間でそのカービングの語源を巡って盛り上がった事があった。誰かが「重心を掛けただけで、簡単に曲がれる(curve)な!」と言うと、H君が「でもカーブにはcarve(削る)というスペルもありますよ?」と言うではないか!確かにコブを削りながら滑り降りるのに適した板なので、「はてどっちが正しいのだろう?」という事になった。調べてみたら、正解は後者のcarveであった。それまではてっきりcurveかと思っていたので、気が付いて良かったと自嘲した。20年も前の会話をふと思い出した。

Saturday, 16 January 2021

UNIQLOとUNICLO

サッポロビールが一転して、スペルミスの商品を販売することにした。やはり昨今の世論を気にしたのだろうか、これで良かったのだ。話題にもなったから、結構売れるかも知れない。災い転じて福と成す、似たような例があのユニクロである。最初はUNICLOだった。ある時、香港の担当者が現地で会社登録する際に間違ってUNIQLOにしてしまった。その後、そっちの方が格好いいと今のスペルになったという。

そのユニクロだが、相変わらず絶好調である。春先に4万円だった株価が今では9万円を超えている。先日久々に店を訪れた際、新しいダウンジャケットを衝動買いしてしまった。シームレスでパーカーの形状も良く、何と言ってもあの価格帯である。一体そんなビジネスモデルがどうやって出来たのか、ブックオフで「ユニクロ帝国の光と影」があったので読んで見た。なるほど厳しい品質管理と顧客を飽きさせない工夫など、苦労を重ねた様子が伝わってきた。中でも低価格に対する拘りが印象的だった。  

随分前に社長になった玉置氏がクビになった事件があった。理由は攻めに欠けたという。どういう訳かというと、玉置氏は従来の低価路線から高級化を目指した。それが柳井さんと相入れなかった。柳井さんはまず顧客が驚く販売価格を決めて、それを生産に落とし込むという。つまりその無謀な挑戦こそが、ユニクロの攻めという事になる。この辺のセンスは、根っからの業界育ちでないと分からないのかも知れない。ともあれ気が付けば、上から下までユニクロである。街ゆく人もそうだろうが、それでいて他人の目が気にならないから不思議である。

Tuesday, 12 January 2021

LAGERとLAGAR

サッポロビールの新商品にスペル違いがあったようだ。LAGERをLAGARと印字してしまった。あれだけの大会社で大勢の人がチェックしているのに、どうして?と不思議である。それも特別な文字でなく、毎日目にしている最も身近な言葉だから猶更だ。新商品の販売は中止になったので、サラリーマン的には、担当者の次回のボーナス査定や昇進が厳しいものになると同情してしまう。

新商品はファミマの16,300店舗に並ぶことになっていたという。仮に一店舗500缶としても約8百万缶になる。販売中止は廃棄だろうから、愛飲家のみならず、昨今の「もったいない」文化の視点からも看過出来ない事態である。詳しい事は分からないが、表記が法律上問題なのだと察する。正にバカの壁である。食品ロスジャーナリストの人が、「EじゃなくてAじゃないか!」と粋な評論を出していたのがとても快かった。  

仮にそのまま出荷していたら、気が付いた人は何人いただろう?いい例がウィスキーのスペルである。かくなる私も、10年前まで当時のアイルランド大使の林氏の本を読むまで気が付かなかった。それはスコッチウィスキーがWhiskyで、アイリッシュウィスキーはWhiskeyとeが入る違いである。バーボンもアイルランド移民の流れを汲んでWhiskeyになっている。今回の新商品の名前は「開拓使麦酒仕立て」である。こっちの方がよっぽど意味不明の呼称だし、何とかならないものだろうか?

Saturday, 9 January 2021

ワシントンの議事堂占拠

昨日、ワシントンの議事堂が群衆に占拠された。煽ったのがトランプ大統領と聞いて驚いた。末期症状とはいえ、常軌を逸した前代未聞の出来事に、改めてドラルド・トランプの本質を見たような気がした。マスコミに対するフェークニュース攻撃など、今まで裏の裏を読んで好意的になった時もあったが、やはり彼自身がフェークだった。もうこれで終わりである。後は退任後に待ち受ける司法の裁きを待つ他ないだろう。今回の発端は選挙に負けたのに敗北宣言を出さなかった事だった。もっと早く敗北宣言を出しておけば、追い込まれる事もなく今回の混乱もなかっただろう。

そう思って日露戦争の本を読んでいたら、ポーツマス条約に辿り着いた。極東での一年半に渡る戦いが終わり、戦後処理をアメリカのルーズベルトが引き受けた仲裁である。日本からは小村寿太郎が参加、対するロシアからは財務大臣のウイッテが交渉に当たった。会議は事前から日本不利が予想された。戦いには勝ったが、モスクワを攻め落とした訳ではない。そのため、ロシアは敗北宣言を拒んで賠償金を支払わない構えを見せた。その予想通り、日本は樺太の一部と朝鮮半島の支配を譲られただけで一銭も取れなかった。怒ったのは国民である。20万人の死傷者と莫大な国家予算をつぎ込んだ挙句これだけか!しかし今から思えばロシアは局地戦の敗北に過ぎなかったのだ。敗北宣言は安易に出してはいけない!そんなアンチ教訓だった。

 ところでそのポーツマス(Portsmouth)だが、今までヴァージニア州にあるノーフォーク軍港の一角だと思っていた。2年前その軍港を訪れ、戦艦ウェスコンシンやマッカサー記念館を見た。きっとこの近くで調印されたのだろう?とその時は感慨深かった。ところが今回改めて調べてみたら、それは間違えでニューハンプシャー州のポーツマスだと分かった。どちらも港の入り口を意味するPortsmouthであった。小村寿太郎は着替えも持たずフロックコート一着で旅に出たと言うし、日本の暗号も解読されていたようだ。そんな事が書いてあった吉村昭の「ポーツマスの旗」を読み直してみたい気になってきた。

Thursday, 7 January 2021

バルチック艦隊の発見

児島襄氏の「日露戦争」の小話が中々面白い。例えばバルチック艦隊を最初に発見した日本人は誰か?バルト海から喜望峰を廻りウラジオストックを目指す事19千海里、その長旅も終わり差し掛かった頃、艦隊はベトナムのカムラン湾で停泊した。その時、ドイツ皇太子の結婚式に参列する日本船と擦れ違った。乗っていたのが有栖川宮威仁親王だった。

有栖川の肩書は海軍大将だが、明治維新の公武合体で徳川家茂に嫁いだ和宮の元婚約者の方が有名である御仁である。加治将一の「禁断の幕末維新史」では、北朝の末裔として本来天皇になるだった人として描かれている。加治氏の天皇すり替え説では、明治維新で北朝から南朝にスイッチしてしまったが、彼の落とし子が今でも北朝の血を引き継いで生きていると興味深い話を披露していた。そんな彼だったが、その時は双眼鏡で望見しただけで終わった。  

そのバルチック艦隊は50隻の大船隊だったからロジも大変だった。食料となる牛馬、豚、鳥などの家畜に加え、犬猫サル延いてはトカゲや蛇のペットも乗船していたようだ。その動物臭がシャワーのない船員の体臭と混ざって放つ異臭は想像しただけで気持ちが悪くなるし、野菜不足で壊血病が蔓延したという。よくもアジアまで曳航出来たとそれだけでも感心してしまった。その他、大陸の寒冷地で行軍する兵の放尿が凍って凍傷を誘発したり、士気を鼓舞する指揮官の方が玉に当たる確率が高いなど、そのリアルさが小説をより高めていた。東郷元帥が持っていた双眼鏡が、ドイツのファイス社から小西六が輸入した2台内の1つだった事も、当時の希少な様子が伝わったきた。

Sunday, 3 January 2021

日露戦争とリバウの港

この年末年始は児島襄の「日露戦争」を読んでいる。約1年半の戦いを、何と文庫8冊に綴った大作である。読む方も大変だが、その緻密で精力的な取材に圧倒される。改めて児島さんは秀才だった。面白かったのは戦費調達の件である。日銀副総裁の高橋是清が10百万ポンドの起債に成功する話である。安ホテルに泊まり最初は中々相手にされなかったが、ユダヤ人シフことクーン・ローブ(Kuhn Loeb)のJacob Schiffの知遇を得て起債に漕ぎつけた。利子6%は今となっては案外低い気もするし、担保が関税だった事も意外だった。

何よりシフの動機が、抑圧されたロシア在住のユダヤ人への同胞愛だった事は興味深い。日露戦争から13年後にロシア革命が始まった。その実態は反ユダヤ主義への戦いだったと云うから、シフみたいな支援が外国から寄せられたのかも知れない。  

そもそも日露戦争が身近になったのは、今から10年程にラトビアのリエパヤと言う港町を訪れた事から始まる。旧名をリバウ(Libau)と呼ぶ大きな入り江は、ロシアのバルティック艦隊が旅順に向け出港した港であった。今では廃港されその面影もないが、残された広大な兵舎やトーチカ跡など、当時ニコライ2世が見送りに来ていた様子を彷彿とさせてくれた。バルティック艦隊は日本海海戦で日本に敗れた。もしあの一戦で日本が敗れていたら、日本は朝鮮半島も含めて赤化されソ連の属国になっていたかも知れない、そう思うとゾッとした。何よりこうして旅する自分もなかったと、その時心に刻んだ。以来、明治の先人に感謝と畏敬の念を抱いているのである。