Tuesday, 28 December 2021

ソ連崩壊と入植者の困窮

この12月でソ連邦が崩壊してから30年が経った。今から思えばまるで昨日のようだが、ロシア人の多くはソ連邦にノスタルジーを持っているという。今ウクライナに侵攻しようとしているのもその一端かも知れない。ロシアには行った事がないが、旧ソ連圏に住んだ経験から彼らの気持ちも分からないでもない。

まず住居である。ソ連の傘下になるとロシア人ならタダで手に入った。元から住んでいた人を追い出し不法占拠したからである。その次は仕事である。その際障害になるのは言葉であった。連邦に加わったベラルーシ、リトアニア、ラトビアなどには元来のローカル言語があったが、それに突然ロシア語が加わった。昔に朝鮮で日本語が公用語になっていたのと同じで、ロシア人は言葉に不自由しないで仕事に就けたのであった。 

ただこの反動がソ連の崩壊後に起きた。住居は本来の所有者に返還されたため、ロシア人は追い出されパスポートも没収された。祖父さんの時代にやって来た家族にとっては母国のような土地だったのに、今更ロシアに帰れと言われてもどうしていいのか分からない。彼らにとってのロシアは既に外国だった。そのため帰るに帰れず無国籍者になった人が多かった。特にラドビアは国民の半分がロシア系だったので深刻だった。無国籍者はEUに加盟しても国境を超える事が出来ず、今でも貧困と治安の元凶になっている。言葉もローカル語が公用語に戻ってしまった。そのためロシア語しか話せない人は仕事に就けなってしまった。

こうして旧ロシア人は彷徨える人達になった。加えて社会主義という配給制に慣れた弊害も大きかった。例えばレストランを経営しても、「何を食べたいんだ?」から「何になさいますか?」の切り替えが出来なかった。今でも旧社会主義圏に生まれた50代以上の人は、殆ど笑顔で振る舞う事が出来ない。 

随分前になるが大阪に出張した時、北ノ新地に寄った居酒屋があった。老夫婦が営む小さな店だったが、傍らにアルバムが置いてあったので見せてもらった。それはハルビン時代のアルバムで、ヨーロッパ風の街並みに西洋人も混じって写っていた。彼らは「自分たちの一番いい時代でした」と懐かしそうに語っていたのが印象的だった。今のロシア人もきっと同じ心境に違いない。

Sunday, 26 December 2021

サンソン処刑人

先日、2年ぶりに3人の死刑が執行された。2人は刑が確定してから17年と18年も経ったという。そんなに長い間、毎日いつ呼び出しが掛かるのか、びくびくした日が続いたかと思うと死刑囚とはいえ気の毒になるのであった。それにしてもいつ誰を執行するのか、又一体誰がそれを決めるのだろう?。まさか時の法務大臣ではないだろうが、一切公開されていないので知る由もないが、まだ100人以上の死刑囚がいるというので気掛かりだ。 

その刑の執行だが、ボタンを押したり遺体を回収したりは刑務所の看守が行うという。子供の頃、仲の良かった友達のお父さんが刑務所の看守だった。刑務所の塀に隣接する官舎によく遊びに行くと、いつもニコニコ顔で迎い入れてくれた。当時はそんな優しく温厚な人柄が囚人の教育にはピッタリと思っていた。ただ実際刑に立ち会っていたのなら、心労も並々ならぬものがあったに違いない。

そんな事を思ったのは、暫く前に読んだ「パリの断頭台(Legacy of Death)」だった。作者はアメリカの女性作家で、フランスで7代続いた処刑人サンソンの物語である。サンソン家は代々処刑を業とし、初めの頃は斧やロープ、フランス革命になってギロチンを使った。ルイ16世やマリーアントワネット、ロベスピエールやダントンも彼の手に掛った。

ただ社会の非差別と偏見も手伝い、その心痛から2代目のサンソンは晩年血を見ると震えが止まらなくなり、4代目は35歳で卒中に見舞われ、5代目は突然精神に異常を来し、7代目は仕事を逃れるためギロチンを質に入れたり、仕事とはいえやはり人間だった一面が伺える。 

その本の後書きにギロチンの効用と反省がある。ギロチンは苦痛と恐怖を与えない装置だが、その迅速さがフランス革命で多くの犠牲者を生んだと。(聊か辛辣だが)因みに絞首刑による絶命時間は7〜15分、電気椅子は4分半という。 

こうして死刑囚の死と向かい合うと、いつの間にか犯した罪もどこかに行ってしまう。ヴィクトル・ユゴーの「公共の権威が人間の生命をもてあそぶ時、人間の尊厳に対する観念はその偉大さを失うのみである」の言葉が耳に残るのである。

Friday, 24 December 2021

ヴィンチ村の旅

テレビを点けると、「世界の街歩き」でミラノを放映していた。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が保存されている教会の前で、文房具屋の主人が登場していた。たまたまオバマ元大統領も来ていた時で、黒塗りの車から本人が下りてきた。

随分前になるが、その「最後の晩餐」を見に行った事がある。予約制だった事が分かり、改めて後日予約を取って出直した記憶がある。薄暗い室内にその謎めいた壁画が掛かっていた。

後日読んだダン・ブラウンのダヴィンチ・コードでは、沢山の謎解きがあったのを思い出す。その一つが失われた聖杯である。イエスとマリアの大きなV字型の空間は、女性のシンボルを示す処から二人の子供を指すという。確かにマリアを右に移動するとイエスの肩に寄り添う形になる。聖杯は子供の意味だった。

そのレオナルドだが、旅をしていると結構な接点があった。最初はルーブル博物館の絵画「モナリザ」である。未だに謎の微笑が何故そんなに価値があるのか分からないが、この絵だけガラスケースに入っていた。
次はロワール地方のアンボワーズ城である。フランソワ1世に連れて来られ、晩年の3年間を過ごした場所であった。イタリア人の彼がフランスに住んでいたのは意外だったが、当時はミラノがフランスに占領された時だったようだ。 フランソワ1世は名君だったので、二人の関係は良かったという。

最後は彼の故郷であるヴィンチ村である。これも随分前になるが、トスカーナ地方を旅した時だった。フィレンツェに泊まりサンジミアーノ、シエナを通りピサの斜塔を見に行った。たまたま近くに彼の生家があると聞いたので寄ってみた。1万人ちょっとの小さな村で、辺りはブドウとオリーブ畑が続く豊かな土地だった。

Saturday, 18 December 2021

会津のローマ市民碑

外国の武勇に感動して碑を贈ったのは、アラモ砦の日本人だけではなかった。この夏、会津若松を訪れた際に、ドイツとイタリアから贈られた変った碑を見つけた。

場所は白虎隊のお墓がある飯盛山の一角であった。一つは1928年にムッソリーニがローマ市民の名前で送ったイタリア碑、もう一つは1935年にドイツ大使館の大佐が建てた碑である。特にイタリアの碑は立派で、何やらポンペイ遺跡から発掘した石柱という。どちらの国も三国同盟の友好を形にしたのだろうか、それにしても当時の様子が伺える一コマだった。

白虎隊については、(以前このブログでも書いたが)自刃したのは20名である。総勢は343名で戦死が33名、つまり残りの290名は生き延びたのであった。確かに自刃した事は痛ましいが、物語を誇張した感がどうしても付きまとう。

事実、明治になって会津藩は廃藩となり、人々は下北半島の寒村に移住させられた。つまり記念碑を建てた頃の人は会津とは縁も所縁もない人だったのではないか?自刃場所を観光スポットとしている今もそうだが、関係ないからこそ戦意高揚に利用出来たのではないか、そう思えてくるのである。

Monday, 13 December 2021

アラモの日本人石碑

アメリカを旅していると、意外な所で古い日本に出逢う。一つはテキサス州に残るアラモの砦である。今では女子供が避難した伝道所だけが残る場所だが、その一角に日本人の石碑が建っていた。1914年に早稲田大の̪シガという教授が贈ったもので、少人数で大軍に立ち向かう姿が長篠の合戦と重なったという。長篠の合戦なんてアメリカ人には知る由もないため、当初は嘲笑されたようだ。それにしても変わった日本人がいたものである。

アラモの戦いはジョン・ウェン演じる映画で何度も見たが、250人の守備隊が数千人のメキシコ軍に立ち向かう姿は壮絶である。後に「Remenber the Alamo」がアメリカ人の勇気を象徴する言葉になったのも良く分かる気がする。因みに長篠の合戦は、500人の守備隊が15000人の武田勢と戦ってこちらは城を死守した。長篠城跡にはアラモの碑が建っているというので、いつか見てみたい。 

もう一つは、海軍兵学校のアナポリスである。行った時は卒業式の後で校内はガランとしていた。ビジターセンターで受付をして校内を散策していると、日本の酸素魚雷が置いてあった。傍のパネルにはその性能と共に、日米戦の転機となったミッドウェイの戦いについて詳しい解説があった。
 
またアナポリスの町に入る高台に、第二次大戦で犠牲になったメリーランド州市民の慰霊碑があった。その中のプレートを読むと「日本軍の捕虜に対する扱いは過酷で、捕虜の40%は殺された。特にバターンの死の行進は酷かった」と書いてあった。

アナポリスには多くの日本人も留学し、最近では極めて優秀な成績で卒業する自衛官もいると聞いている。そんな親近感もあるが、こうして何気ない過去に出逢うとドキッとする。

Friday, 10 December 2021

アメリカに残る日章旗

太平洋戦争の開戦から80年、然したる記念行事もない中、愛媛県で「真珠湾攻撃隊十勇士」の史跡を建立したニュースがあった。ハワイ真珠湾に侵攻した特殊潜航艇の乗組員を祀る記念碑である。従来は9軍神だったが、これで晴れて捕虜第一号となった酒巻氏の名誉が回復し良かった。早速資金援助を兼ねて「酒巻和男の手記」を取り寄せた。

その酒巻少尉のミニ潜水艦であるが、9年前にアメリカのテキサス州を旅した時に偶然遭遇した。その時の話は、本ブログの2012年12月8日付「テキサスに眠る特殊潜航艇」で紹介させてもらった。場所はニミッツ提督の故郷のフレドリックスバーグで、ドイツのブレーメンから移り住んだ祖先がここでホテルを営んでいた。その広い敷地に「国立太平洋戦争博物館」を建造し、太平洋から持ち帰った日本の戦車やアメリカの魚雷艇などを陳列していた。 

その中にその特殊潜航艇もあった。ハワイで回収された後、戦意高揚のため全米を廻り最後はこの地に落ち着いた。鑑は綺麗に塗装が成されていた。酒巻少尉を紹介するパネルもあり、タバコの火の痕が残る写真と共に、戦後トヨタブラジルの社長を務めた経歴が書かれていた。敷地の一角には東郷元帥宅の庭を模した日本庭園もあった。日本政府のカネで作ったようだが、こんな寂しい場所に置き去りにされた潜水艇のせめてもの慰めに思えた。

アメリカを旅しているとこの手の博物館が実に多いのに驚く。2年前に廻った東海岸でも、立派な国立海兵隊博物館やノーフォークの軍港に係留する戦艦ウィスコンシン、マッカーサー博物館、スミソニアン博物館など、出征の寄せ書きが残る軍旗や日本軍の武器を展示したヴァージニア戦争博物館では「何でこんな所にあるの?」と思った。

外から見ると日本がよく分かると云うが、正にこれはその典型で、我々の知らない日本が
残されている。まだまだマサチューセッツやニューオーリンズ、グアムにもあるというのでその内行ってみたいと思っている。

Tuesday, 7 December 2021

真珠湾から80年

明日の明朝は真珠湾攻撃の日、日米開戦から80年の節目である。今頃はエトロフの単冠湾を出港した連合艦隊の中で、搭乗員が今か今かと発艦を待っていた頃かと、当時に思いを馳せている。 

真珠湾攻撃を書いた戦記や映画は実に多いが、こういう時に思い出すのは攻撃隊長だった淵田美津雄氏の自叙伝「真珠湾攻撃総隊長の回想」である。第一次攻撃隊183機を引率し、あの「我奇襲に成功セリ」の「トラトラトラ」を打電した人である。終戦後はキリスト教徒として伝道の道を歩んだ人だったが、淡々と任務を務めている様子が伝わってくる。

その太平洋戦争であるが、NHKではいつものように日本が戦争に突き進んだ反省番組を組んでいた。しかしこの自虐的な感覚がどうしても許せない。日本は400年に渡る鎖国を無理やり解かれかと思うと、そこは欧米の植民地主義の最中、気が付くとロシアが迫ってきてた。辛うじてこれに勝利したが、多くの犠牲を出した割には代償も取れなかった。その後やっと手に入れた満州からもまさかの撤退を通告され、従わないなら禁油すると言われた。欧米の理不尽に散々振り回された挙句、民族存亡の危機が迫った時だった。 

さっきTVを見ていたら安倍さんが、いみじくも「(彼らは)見誤った」と言っていたが、起こるべくして起きた戦争だった。それは日本だけでなくドイツも同じである。第一次大戦後の驚愕な賠償請求がなければ、ヒットラーの出現はなかったし第二次大戦も起きなかっただろう。

だから仮に時間を巻き戻したとしても、日本人なら又同じ決断をする気がする。80年と言えば人に称えると傘寿である。先日テニス仲間の傘寿のお祝いをしたから身近に元気な人は多い。遠い昔のようだが、その人達を見ていると、実はそんなに古い話ではないと思えてくる。

Sunday, 5 December 2021

病原体仮説のウソ

日本では沈静化しているコロナ感染だが、ヨーロッパでは又急拡大が始まっている。1日の感染者がドイツやフランス、英国でも4〜5万人も出ているという。ワクチンを打ったのにどうして中々収まらないのだろう?日本でも三回目の接種が始まろうとしている矢先、本当にワクチンは有効的なのだろうか?と、疑問を持ち始めている人は多いと思う。 

その感染源だが、実はワクチンを接種した人の体内から出る飛沫という説がある。知人のHさんが薦めてくれた「ワクチンの真実」という本で、著者は奈良医科大を出た医師である。それによると最近話題になっているブレークスルー(すり抜け)も、犯人はワクチン接種者という事になってくる。

確かにファイザーやモデルナの大手製薬会社がほぼ世界を独占している点も変だし、政府が必死に接種を推奨するのも気持ち悪い。またCDC(アメリカ疾病予防センター)やファウチ氏のアレルギー感染病研究所という公共の機関が、本来チェックすべき大手製薬会社と一体となっている構図も気掛かりだ。本ではCDCをして「狐がニワトリ小屋の見張りをしている」と評していたが、新薬の治験なんて何でもありみたい世界が透けて見えて来る。 

それにしても、こうしてワクチン行政を批判するのは本当に勇気がいる。思い出すのは60年代に流行った公害である。当時それに立ち向かったラルフ・ネーダーや東大の宇井純氏は、政府・企業に真っ向から挑戦した孤高の人だった。その宇井氏は助教授のまま据え置かれたし、今でも原子力の専門家で原発行政を批判している京大の小出裕章助教もそうだ。つくづく既存の体制と向かい合うにはそれなりの覚悟が要ると思うが、声が大きくならない理由もそこにあるのかもしれない。

今のワクチン理論は、パスツールやコッホから始まる「病原体仮説」がベースという。所謂ヒトの体内に病原菌を挿入して抗体を作る方法である。ただそのパスツールも死ぬ直前に、「病は人が置かれている気候、衛生、ストレスなど環境から来るもの」と、その病原体仮説の過ちを認めたという。何が本当なのか素人には本当に分からないが、一つだけ思っているのは「もう三回目は勘弁して欲しい!」。

Monday, 29 November 2021

ワクチンで殺される?

またコロナ禍がぶり返してきた。今度は南アフリカ産のオミクロン株と云う。株価も暴落している。欧米では再拡大が起きているし、日本も第6波が来るのか心配だ。 

そんな矢先、新宿の本屋を覘くと「ワクチンを打ってはいけない」コーナーがあった。マスコミはワクチンについて、あまり悪口を言わないムードがある。何か政府の統制も働いているような感じもするが、SNSや出版ではこうして正反対の事を言っている。多分国民の4人に1人はワクチンを打っていないので、その人達の拠り所なのかも知れない。

そう思って試しに一冊「ワクチンで殺される」を買って読んでみた。要約すると、「ワクチンは生物兵器で、デープステートのフリーメイスンが中心となって、人類の人口削減のためにこれを使っている」「コロナもアメリカのチームが武漢に持ち込み人工的に拡散した」等々。本当かな?と思ってしまうが、ファイザーの元副社長や多くの著名な医師も入っているのが気になる処である。

確かに人口が増えれば食料難になるし、移民がどんどん入ってくれば今の生活が脅かされる。どこかで歯止めが掛からないと危ないし、だからと言って国がらみで大量殺人に走るなんてどう考えてもあり得ない。

何が本当で何が嘘なのか、注射を打ってしまったので今更後戻りは出来ないが、ワクチンを打つと2年以内に死ぬらしいので、来年あたりに何か兆候が出て来るのだろうか?

Thursday, 25 November 2021

ウィンザーノット

昔ある日本の女性ファッション家が、安倍元首相の着こなしを嘆いていた。例えばネクタイ、安倍さんは横シマのレジメンタルタイを好んでしていたが、海外の公の場では御法度という。特に右肩下がりは駄目だという。レジメンタルタイは元々英国の連隊で使われていた柄で、右肩上がりの英国式がフォーマルと言う。安倍さんのは右肩下がりのアメリカ式だった。その時はお気に入りのブルックスブラザーズが亜流かと知り、複雑な気持ちになったりしたが・・・。 

その人は外国出張時のローファー靴や、背広の袖から出ないシャツもみっともない部類に入ると言っていた。服装には礼儀が伴うのは今更語る術もないが、一国の代表となるとやはり細かな所まで配慮した方がいいと思った。

新しく就任した岸田首相も、そのレジメンタルタイを好んでよく身に付けている。青と白のストライブが多いが、よく見るストライブは右肩上がりなので、英国式のフォーマルである。やはり宏池会の正統派を意識しての演出なのだろうか。 

ネクタイは結び方も重要である。普通は縦結びが多いが、三角形を作るウィンザーノットという結び方もある。個人的には喉が詰まる感じがするので好きでないが、イアン・フレミングの古い小説「ロシアから愛をこめて(From Russia, With Love)」を読んでいたら、ジェームズ・ボンドも酷評していた。それはソ連の殺し屋がしていたファッションだったが、彼は「(ウィンザーノットは)下品な男のよくやる結び方」と貶していた。確かにボンドがやっているのを見た事がない。その殺し屋を「三流パブリックスクールから戦争に飛び込んだ野戦憲兵タイプ」と品定めしていた。 

もうネクタイをする機会もめっきり減ってきたから、結び方も忘れそうだ。思えば長い間、首を絞める習慣によく耐えたと感心してしまう。ただ相変わらずセンスのいい着こなしをする人を見ると好感が持てる。中でもネクタイの趣味は人柄を如実に表すだけに、男の重要なポイントだと思っている。

Monday, 22 November 2021

モンテネグロのハイウェー計画

4年前にモンテネグロを旅した。前の晩はボツニア・ヘルツゴビナのヴィッシェグラードという小さな町に泊まった。そこはドリナ川とそれに架かる石橋があり、ノーベル文学賞の小説「ドリナの橋」の舞台であった。早速帰国して読んでみたが、何世紀にも渡るバルカンの歴史を、一つの橋を通してユーゴの作家が語る中々味のある小説であった。 

翌日は険しい山間を縫ってモンテネグロに入った。一帯はセルビアとモンテネグロの国境も交じり合う場所で、ボツニア・ヘルツゴビナ領で道に迷ってウロウロしていたら、道を聞いた地元の女性が険しい顔で「付いてきなさい!」と検問まで車で誘導してくれた。ユーゴ内乱の時にジェノサイドが行われた場所も近くにあり、今でもその緊張感が伝わってきたのであった。

そのモンテネグロへの道のりは、岩山の間を縫うような山道が続き、最後はアドリア海に向かって一挙に下るコースであった。特に最後の首都ポトゴリッツアに差し掛かる辺りは、エンジンブレーキを掛けても中々減速しない恐ろしい急こう配であった。 

 先日NHKの番組を見ていたら、そのモンテネグロに中国が高速道路を作ったと報じていた。数年前からモンテネグロは、セルビアと繋ぐ全長445kmの高速道路を中国の借款で進めていた。もう40%が完成したというが、映像を見ると高架でスリル満点の道路が出来ていた。

問題はその規模と採算だった。モンテネグロは何と国のGDPの1/5に当たる10億ドルを、その道路のために中国から借りたのだ。これから先未だ更に10億ドルものカネが掛かるという。急こう配の国土に90のトンネルを掘り、40の橋を作ったと云うから、聞いただけで大胆な計画であった。
  
マスコミは「一体誰がこんな道路を使うのか?」、「Death Road(国が死んでしまう道路)」、「Billion dollar motorway leading Montenegro to Nowhere(行き先のない高速道路)」と批判していた。

確かにユーゴ解体後、一時は又モンテネグロとセルビアは復縁する話もあった。だから両国は親密な関係だったのかも知れないが、それにしてもセルビアすら高速道路は少ないのに、況や人口60万人のモンテネグロが単独で建設するのはEUの常識から逸脱している。透けて見えるのは、海のないセルビアのノスタルジーと、それに付け込む中国であった。

中国の一帯一路は、既にスリランカやイタリアなどで問題になっているし、EUはやっとその正体に気が付き始めたようだ。この高速道路もこのまま行けば中国に抑えられてしまうのは時間の問題だ。また恐ろしい現実を知ってしまったのである。

Saturday, 20 November 2021

COPと原子力発電

地球温暖化の会議、COP26が閉幕した。結局インドと中国が反対して、石炭火力の廃止には至らなかった。改めて成長した国とこれから成長する国の隔たりは大きかった。いざという時は、背に腹を変えられなかったのだろう。 

そのCOPに昔行った事がある。広い会場で2週間に渡って1万人以上が参加して行われた。本会議場では各国の代表が代わる代わるスピーチするのだが、いつ始まっていつ終わるのか、兎に角ダラダラと続き、聞いている方も出たり入ったりで落ち着かない。会場には国際機関や自然保護団体、温暖化ビジネスの会社のブースが立ち並んで交流の場になっていた。改めて「温暖化マフィア」と呼ばれる温暖化で食べている人達の多さに驚かされ、何か彼らの集いの場みたいな雰囲気を感じた。

特に変だと思ったのがその実効性である。いい例が京都議定書である。1997年に京都で開かれたCOP3では、「2008-12年のCO2排出量を1990年比で6%削減する」事が決議された。ただいざ2008年になっても目標は達成されないばかりか罰則もなく、各国は何もなかったかのように又次なる目標を作り始めた。あの時に真面目に取り組んだ関係者にとってそれは騙されたような気分だったが、次第にCOPとはそういうものかと思うようになってきた。 

石炭などの化石燃料が駄目なら、代替電源は原子力発電しかないのも気掛かりだ。穿った見方かも知れないが、COPの正体は原発推進ではないか?最近何となくそんな気持ちになっている。そもそも地球の温度が本当に上がっているかも疑わしい。10年ほど前にIPCCの学者が気温のデータを捏造したClimategate事件もあったし、実は温暖化はフィクションではないか? 

化石燃料の犯人説もそうだ。地球の傾きとか太陽の黒点など温暖化の原因は色々考えられるのに、今ではほぼこれに特定され誰も意義を挟むことが出来ない。その一例が昨今急速に進んでいる自動車のEV化である。フォルックスワーゲンなど2030年までに今のガソリン車から全てEVに移行すると言っている。でもその電源はどこから来るのだろう?石炭などの化石燃料が駄目なら原発しかあり得ないのに・・・。 

「南極の氷が解けると海の水位が上がり島が陥没する」と言われている。先日のCOPでも、島国のツバルの代表が海に入ってその危機を訴えていた。しかしコップの中の氷が解けても水は溢れない。素人でもちょっと考えればおかしな話も多いから気をつけないと思っている。

Tuesday, 16 November 2021

女系天皇とフグ田王朝

この夏、我が家に新しいゴールデンレトリバーがやってきた。以前飼っていた犬が死んでしまい、その大甥にあたる犬である。大人しくて殆ど吠えないし、飼い主の目をじっと見て離さない処は伯祖父の子供時代と良く似ていて可愛い。やはり血筋なのか、この子は立派な成犬になると今から楽しみである。 

ただその子は伯祖父の娘、つまり雌方の血を引いている犬だとブリーダーが言っていた。ふと思ったのは、今議論されている女系天皇と女性天皇の問題である。犬を天皇に例えては甚だ顰蹙とは承知しているが、仮に女系が認められないと我が家にやってきた子犬も、正式には血統証が出ない事になってしまう事が分かった。

その女系天皇と女性天皇の違いを面白おかしく解説していたのが、あの百田尚樹氏の「百田尚樹の日本国憲法」であった。彼はサザエさんを例に挙げていた。

サザエさんの父は磯野浪平であるが、もし仮に彼が天皇だとすると、女系天皇の場合は次はサザエさんが、次の次は彼女の子供のフグ田タラオが天皇になる。すると有史以来続いていた男子の万世一系が途絶えてしまうという。 

確かにXYとXXの染色体の論理からするとその通りである。つまりその時点で、磯野王朝からフグ田王朝になってしまうのである。尤もサザエさんには磯野カツオと云う弟がいるので、現行の法律では彼が天皇になるので問題ないのだが・・・。 

何やらややっこしい話である。英国でもベルギーでもタイでも、ロイヤルファミリーが内部から瓦解している時代である。人々が本当にロイヤルを求めているのか、今回の眞子さんのゴタゴタもそれと関係しているような気もする。憲法の改正も近いしどう考えたらいいのか、とても悩ましい課題である。

Monday, 15 November 2021

軽石とストロンボリ島

小笠原諸島の海底火山噴火で、大量の軽石が発生し問題になっている。押し寄せる軽石に埋め尽くされる浜辺や、船の運航に支障を来すなど多く被害が出ている。軽石を食べた魚の死骸を見るにつけ、自然の輪廻を感じるのであった。 

そんな矢先、NHKでイタリアのエオリエ諸島(Isola Eolie)を放映していた。「何処なんだろう?」と思って調べてみたら、何とシシリア島の近くだった。一帯は活火山が連なり、その一つのブルカーノ島(Vulcano)は噴火を意味する「ボルケノ(Volcano)」の語源というから正に噴火のメッカである。何年か前にシシリア島を一周した時、ヨーロッパ最大のエレナ火山に恐れをなし遠回りした事を思い出した。

そのエオリエ諸島であるが、テレビのカメラが海に入ると海底からシャンパンのような泡が海底から湧き上がっていた。問題の軽石も浮き上がっていてそれは美しい光景だった。ストロンボリ(Stromboli)という島も紹介され、火口近くまで一般人が見に行ける恐ろしい観光用のルートがあった。「あれ?どっかで聞いた名前だな?」と思ったら、何と昔見たイングリッド・バークマン主演の映画「ストロンボリ、神の土地」の舞台であったから驚きだ。

映画は、島の漁師と結婚したイングリッド・バークマン演じるリトアニア生まれの女性が、島にやって来る処から物語は始める。ただ彼女は漁村の貧しさと孤独に耐えられず、何と島を出ようと試みる。夫を置いての逃避行の末、最後はストロンボリ火山の灼熱に圧倒される処で映画は終わる。「カサブランカ」のバークマンとは全く異なる、罪を贖う女のイメージであった。

処で同じ頃放映された「苦い米」や「揺れる大地」などのイタリア映画は、その貧困度が当時の日本とよく似ていて親近感を覚えるのである。ストロンボリの映画では、火山が噴火すると人々は船で海に一旦退避する。その生活振りもとても自然と共存して懐かしさを感じる。

Monday, 8 November 2021

ヒロヒトコイン

今月から新500円硬貨が流通し始めた。まだ見ていないが、500円玉は古くなると機械が対応しないので気をつけなくては行けない。ある時CDが詰まってしまい、大事になった経験がある。

思い出しのは、昭和天皇在位60周年を記念して発行された10万円金貨である。金の含有量は20gだったので、当時の時価で4万円程度、つまり額面との差額はまるまる財務省に入った計算になる。1100万個を作ったので、政府の利益は6000億円超だったと言うから驚きだ。何か錬金術みたいな感じがして、お祭り事に水を差すような気がした。 

 思えば不思議な図柄もそうだった。天皇の顔があってもいいのにそれがない。60周年と言う節目も不自然で、何故50年では無かったのか?その謎に迫ったのが加治将一の「陰謀の天皇金貨(ヒロヒトコイン)」である。中々面白い小説で、中曽根とレーガンのロンヤス会談が開かれた頃で、その6000億円を必要とした政治情勢も想像力逞しく分析していた。 

中でもプラザ合意で円高になるのを見込んで金貨をドルで買い、2年後に売却して大儲けする外人投資家の話は巧みであった。その投資家は為替で60億円を儲けたが問題は換金であった。硬貨は日本に持ち込まないとキャッシュにならない事だった。そこで事件が発覚するのだが、いつ誰が大量の新コインを持ち出したのかは不明に終わった。

処で小さな記事だったが、先日会計検査院が「財務省の保有する金塊129tは多過ぎる」と指摘したのを見た。小説に毒されると、又記念コインでも出すのかな?と思ってしまう。素人には分かりに難いが、コイン発行には大きな理由があるようだ。

Saturday, 6 November 2021

不倫と毛思想

中国の女子テニス選手が、前副首相と不倫関係にあったとSNSで告白した。サイトは直ぐに削除されたようだが、ウィンブルドンでも優勝したトッププレーヤーだけに大きな話題になっている。それにしても10年越しで歳の差40歳、不倫場所は妻もいた自宅だったというから驚きだ。

思い出したのは、数年前にあった反腐敗キャンペーンと称した汚職官僚・幹部を摘発した事件である。長老の王岐山が主導した内部調査で5万人以上の逮捕者が出た。習近平の政敵だった薄煕来など大物も多く含まれて、インターポールのトップだった中国人も突然と姿を消したのもその頃だった。日頃はお堅い共産党幹部が、愛人と裸で写っている写真が出回ると、「やっぱりね!」と思った人は多かったのではないだろうか。 

そんな「権力と女」の風土を理解する上で、最高の本は「毛沢東の私生活(The Private Life Of Chairman MAO)」である。著者は毛沢東に長年付き添った主治医である。発刊されて間もなく、著者はNYのホテルの風呂で死亡しているのが発見された。正に命懸けで公表した毛沢東の私生活であったが、歴史書としても大変面白い一冊だった。

その本の中に、毛沢東が多くの若い女性を自宅に招聘する様子が赤裸々に出て来る。呼ばれた田舎の娘たちも、雲の上の人に会って天にも昇る気持ちになったようだ。勿論妻の江青はそれを知っていた。ただ彼女は自身の政治的立場を堅固にする為に我慢したので、葛藤した様子も描かれていた。 

そう考えると、一連のスキャンダルは毛沢東の影響を受けている気がする。毎日毛思想ばかり勉強していると、その私生活まで真似するのは自然の流れである。「権力を掴めば自由な女性関係が許される」という毛の生き方は、今更誰も否定する事が出来ないだろう。だから今でもそしてこれからもずっと、中国社会の風土文化として残るのである。

Thursday, 4 November 2021

中国人の団体ハイカー

暫く前に、長野県の森林レンジャーをボランティアしていた。県から貰った腕章を付けて、登山者の安全と山の美化に努めるのが役割だった。ただ今時お花畑に入って踏み荒らす日本人はいないし、ゴミも持ち帰るマナーも徹底しているので殆どやる事はなかった。 

ところが、当時問題になっていたのは中国人のハイカーだった。爆買いで来る中国人が多かった頃で、お金持ちになるとそれでは飽き足らずに山に繰り出した。真新しいウェアに身を包み、やはり大人数で押し寄せた。その人達が写真撮影でコースを外れ、高山植物を踏み荒らすので地元では頭を悩ませていた。

山小屋に着くと大声で夜遅くまで騒ぐのも迷惑だった。特に驚かされたのは、体調の悪いハイカーが出ると、山小屋に置き去りにしてしまう事だった。常識では考えられない事だったが、ツアーの日程の関係なのか、将又中国人特有のエゴなのか、残された人とそれを保護する方にとっては迷惑だった。 

そんな時どう対応するか、ある時その研修会があったので参加した。どういう言い方で注意するか、言葉が通じない時はどうするか、問題山積で結局喧々諤々で中々いい答えが出なかった。その内何か林野庁や環境省の下請けをやらされているような気分にもなり、段々馬鹿らしくなってきた。ボランティアの多くは地元の人達だったから、場違え感もあったのかも知れない。いつの間にかその仕事は辞めてしまった。 

コロナ禍でこの2年程は静かだったが、来年からまたどうなるのだろう?

Sunday, 31 October 2021

裏銀座と六本木

今年はまた山登りを始めた。昔のような神風登山は出来ないが、馴染みのある優しいコースを選んで安全第一でやっている。麓に下りて、汗かいて登った山を見ながら温泉に浸かれば正に極楽気分である。 

 登山を始めたのは中学生の頃だったか?近場の秩父や奥多摩を皮切りに、気が付けば南アルプスの北岳、北の穂高と槍の表と裏銀座、中央アルプスの宝剣岳など主だったコースは殆ど踏破した。

ただ多くは単独行であった。サラリーマンだったから、気軽に時間のある時に天気を見ていけるのが効率的だった。思えば最近のゴルフと同じである。

当時の新田次郎の小説「孤高の人」の影響も大きかった。今で言うランニング登山の端がけであるが、天才クライマーの加藤文太郎と我を重ねた。彼はある時頼まれて人を同伴する事になり、その思わぬ気遣いで遭難死する話であった。 

 以来他人に迷惑を掛けまいと単独行に徹している。ただ最近、1人登山者が熊に襲われたとか、コロナで外出自粛の中滑落して発見が遅れたとか、そんなニュースを聞くと複雑な気分になって来る。 

 北の裏銀座は、前日六本木で飲み会があって出発が遅れた。それを取り戻そうと三俣蓮華、双六を過ぎた頃から足が動かなくなり、陽が落ちて野ザルも出て来た。猿達に見つめられながら槍ヶ岳山荘に着いた時には暗くなっていて、極度の緊張感で白髪になってしまった。 

 宝剣岳から木曽駒を通る中央アルプスのルートは人気も少なかった。途中滑落して助けを求めたが通る人もなかった。勇気を出して元来た道に戻ったのが幸いした。兎角疲れていると下山する心理が働くから、あの時の判断で命が救われた。山を見ていると、そんな日々を思い出す。

Wednesday, 27 October 2021

ショパンとポーランド

今年のショパンコンクールで、日本人の男女が2位と4位に入賞して話題になった。特に2位は内田光子以来51年振りというから快挙であった。ただ我々の世代で思い出すのは何と言っても中村紘子さんである。彼女は確か4位だったか、幼稚舎出身の育ちの良さと美貌で一躍有名になった。

更に押し上げたのが庄司薫氏との結婚だった。 庄司氏は東大出の作家、当時ベストセラーになった「赤頭巾ちゃん気を付けて」が一世を風靡した。ところが彼はその後全く筆が止まってしまい、世間から忘れられた人になってしまった。一体生活はどうしていたのだろう?ひょっとして中村さんに食べさせて貰っていたのかだろうか?その中村さんも随分前にお亡くなりになってしまった。作家は職業人生が長いように思っていたが、一発屋のようで何か哀れに思えてくる。

そのショパンであるが、ポーランドに行くとワルシャワの空港名から紙幣の絵柄まで、町おこしのシンボルになっている。正に国の宝であるが、そんな彼は21歳の時にパリに移っているから、過ごしたのは若い時だけである。

以降は肺結核を患い、リストの娘で後のワーグナーの妻になるコジマと付き合った。ただ二人の関係は喧嘩ばかりしていたようで、寒いパリを離れで過ごしたマヨルカ島でもそれは続いたと、何かで読んだ記憶がある。

ショパンとは、ポーランドの生家とパリのペール・ラシェーズのお墓を訪れて以来、線が繋がったようで身近な気分になっている。ただ荒涼としたポーランドの大地からどうしてあんなインスピレーションが生まれたのか、恵まれなかった私生活からどうしてあんなリズミカルで甘い旋律が生まれたのか、未だに良く分からない。

Saturday, 23 October 2021

振顫譫妄症ビール

ピンク・エレファントというベルギーのビールがある。名前の通り、ピンクの象がモチーフで象肌の瓶に入っている。飲むとフルーツ風味だが、アルコール度が8.5%もあるのでいつも飲む時には気を付けている。最近は日本でも色々なドラフトビール生産が増えビール党には嬉しい限りであるが、時々贅沢をしよう思った時に手が出るのはこの一本である。


ところが「ピンク・エレファント」とは愛称で、ボトルに付いている正式な銘柄は「Belirium Tremens」である。日本語に直すと振顫譫妄症(しんせんせんもうしょう)と聞き慣れない言葉になる。意味する処は「アルコール中毒による発汗、震え」という。今更だが、よくもこんな名前をラベルに刷り込んだと感心してしまう。

ただベルギーでは今だにビールが修道院で作られている事を思うと、ひょっとして医薬品の一種かとも思ってしまう。普通のビールのアルコール度は5%程度なので、日本なら昔のメチルアルコールに近い。確かにその晩は急に酔いが廻った。

ベルギービールの銘柄は市中に出回るレフ(Leffe)のように、醸造寺院や僧侶の名前を冠するものが多く、ただ中には変なものもある。例えば「酸素効率化ビール(Oerbeer)」、「聖杯(Holly Grail)」、「戦略的核ペンギン(Tactical Nuclear Penguin)」など、ふざけた名前はベルギー出身の女優を捩った「オードリー・ホップバーン(Audrey Hopburn)」や「トランプハンズ(Trump Hands)」などもある。「シトラじっとしていろ(Citra Ass Down)」に至っては訳不能なので、いつか識者に聞かないと分からない。

こう考えると、奇をてらった商業戦略のような気もしてくる。元々湿度が低い国だから、日本の夏の様にガブガブと飲む風土ではない。大事な時に賭ける一杯かと思うと、少し分かってくるが・・・。

Monday, 18 October 2021

ユダヤ・コレクション

今から8年ほど前だったか、ミュンヘンのアパートで大量の絵画が発見された。戦時中にナチが略奪した物で、その数は1200点、額にして10億ユーロ相当もあった。隠匿者の老人は長年その作品を売っては生活の足しにしていたという。

ナチの盗んだ絵画は今でも10万点以上が行方不明と云われる。背景にはヒットラーが画家志望であった処から、将来オーストリアのリンツに大美術館を建設する夢を持っていたとか、ゲーリングがその向こうを張って美術収集に凝ったとか色々な説があるが、いずれにしても国家ぐるみの事業だった。

バート・ランカスター演じる映画「大列車作戦」は、こうした移送を阻止する鉄道レジスタンスの話だったり、「ミケランジェロ・プロジェクト」もその手の類の作品で、宝探しのような感覚があるのだろうか、未だに数多くの小説・映画で取り上げられている。

随分前になるが、フランク・マクドナルドの「Provenance(ユダヤ・コレクション)」という小説もその一つだった。中野圭二氏の素晴らしい訳で読んだ事があるが、こちらもゲーリングから委託された元ナチの将校が戦後も隠し持つ話であった。彼は預かった大量の絵画をローマのカタコンブに隠し、本人は僧侶になって守り通した。ただいつかカネに変えなければ宝の持ち腐れである。問題はいつ誰を通して現金化を図るか、そこで出て来るのが画商であった。その大物画商が動き始める辺りから綻びが出て来るのだが、絵画を追うと戦前戦後が繋がるから面白い。 

物語の中にはパリの公共競売所、オテル・ドルオーも出て来る。フランス語の数さえ発音出来れば、誰でも参加できる至ってオープンな競り市である。何百円のガラクタから高級家具まで、午前中に下見をして午後のセリ参加するのだが、もの凄い速さで回転するのでお目当てを定めないと逃してしまう。競り落とすとその場で決済して直ぐに持ち帰るから、慣れて来るとショッピング感覚で参加できる。私の場合、お目当ては数万円程度の風景画であった。年代物も多く素人にしては立派な作品も多いので、画廊や蚤の市で買うよりお得感があった。出品者の多くは遺産の処分や転居・転業であるが、中にはこうした盗品紛いもあったかも知れない。

Saturday, 16 October 2021

ユニークな子供達

子供の頃、文京区の目白に住んでいた。細川庭園や山縣有朋の椿山荘など、緑多い環境に遊び場には事欠かなかった。今の聖マリアカテドラル大聖堂が建っている場所は、空き地でよく草野球をした。近くの銀行の頭取宅には大きな池があったので、守衛の目を盗んでは忍び込みオタマジャクシなどを捕った。

田中角栄邸もあった。まだ切り売りする前の広大な敷地で、勿論入った事はないが、小石川高校出のインテリ八百屋が様子を教えてくれた。彼は卒業して実家を継ぎ、その経歴が角栄さんに気に入られた。角栄さんの威力は町内会のお祭りにも発揮され、お神輿を担ぐと沢山のお土産が貰えた。

地元の公立小学校は、今から思えばユニークな子供たちが多かった。食堂をやっていたK君の家は貧しかった。だから服は普段着と体操着の2枚しかなかった。体操の時に普段着を、普段の時に体操着を着る姿に子供でもそれは分かった。クラスの親分は質屋の女の子だったり、在日のS君もいた。S君は体が大きく手を振り上げては頭を掻く仕草で威嚇するのが癖だった。洗濯屋、印刷や、乾物屋、薬屋など店の子供が多く、畳屋のH君もいた。H君は大きくなって実家を継いだが、銀座のイタリアンでクラス会をやった時、仕事着でやって来て入店で断られたのには申し訳ない事をした。

そんな思い出一杯の目白だったが、最近テニス仲間で雑談していたら「俺も目白に住んでいたんだ!」と何人かが名乗りを挙げてきた。和敬塾から本郷に通っていたKさん、日本女子大裏に下宿していた早稲田のSさん、都電の江戸川橋に住んでいたNさんなど、写真家のKさんも同じ学校の先輩だと分かった。「コロナが晴れたら目白で飲みましょう!」とう事になっている。そろそろその時が訪れそうで楽しみである。

Thursday, 14 October 2021

No Time To Die

007の新作「No Time To Die」が公開されたので観に行った。子供の頃から見続けたジェームズ・ボンドも今回で25作目という。今回で最後になるダニエル・クレーグも52歳なら、ジェームズ・ボンドも退役生活を送っている処から始まるなど、シリーズも終わりに近づいてきた感がした。観る方も歳をとってきたせいか、激しいカーチェイスや銃声、爆音を聞いているとどっと疲れるようになった。若い頃は劇場から出ると、暫くジェームズ・ボンドになり切っていたので隔世の感である。

その新作だが、冒頭に古いイタリアの町が出て来た。どこかで見覚えがある風景で、初めはシシリア島かと思った。帰ってからロケ地を調べてみたら南部のマテーラ(Matera)だと分かった。石灰岩の山肌を切り抜いた洞窟に人々が暮らしている町である。もう30年近く前になるか、実際に行ってみた時は洞窟に住んでいたのは怪しげな人達で、怖くなって退散した記憶がある。

もう一つはカーチェイスを繰り広げる森と川である。「あれ?これってSkyfallの時と似ている」と思ったら、やはりスコットランドだった。ただあの時はグレンコーで今回はケアンゴーム国立公園だった。グレンコーはそれは美しい渓谷が続き、スコットランドの悲劇と重ね合わせると神聖な気持ちになる場所である。ただ今回のケアンゴームは、ウィスキー醸造所が立ち並ぶ海沿いから内陸に入り観光ルートから外れていたので知らなかった。
 
007の映画はロケ地を巡る裏話やこぼれ話が面白い。昔日本が舞台になった「007は二度死ぬ」では女優の若林映子が泳げないのでショーン・コネリーの奥さんが代行したとか、スタッフの帰りの便が墜落したとか、随分前に撮影の村となった鹿児島の坊津町の記念碑を訪れてから急に身近になった。あれから数多く出て来るラブシーンも、前で奥さんが見つめる中の撮影かと分かり、ジェームズ・ボンドも楽ではないと思うようになった。

Tuesday, 12 October 2021

カウラのイタリア人

オーストラリアを旅していると、よくイタリア人の話に出逢う。例えばケアンズ郊外にイニスフェイル(Innisfail)という町がある。ゴルフをしに行ったのだが、そこは草競馬場だった。どうやら競馬とゴルフを兼ねているらしく、面白い事に競馬トラックの中からスタートし、一度馬場を出て最後はまた戻って来るという、いかにも地元のパブリックコースだった。

その日は終わって真っ直ぐ帰ったが、後でイタリア人が多く住んでいる町だと分かった。第一次大戦が終わった1920年代に、マルタ島、ユーゴスラビア、ギリシャなどから移民がやって来て、中でも多かったのはイタリア人だったという。

もう一つはカウラ(Cowra)の収容所である。カウラはシドニーから300Km内陸に入った処に残る広大な捕虜収容所跡である。ここには太平洋戦争時に1000名程の日本人捕虜がいた。終戦の一年前に集団脱走を図り、半数近くが命を失った場所である。実際に行ってみたが、仮に脱走できてもどうやって国に帰るのか?その馬鹿げた事件の陰には偉ぶった扇動者がいたと聞いて腹が立った。犠牲になった多くは若者も含めた軍属だった。500人近い犠牲者が眠る立派な墓を現地の人が管理していると知り、供養に行ったが頭が下がる思いだった。

ところでそのカウラ収容所には、当時同じ数のイタリア人捕虜もいた。彼らはのんびりと戦争が終わるのを待っていて、勿論脱走は晴天の霹靂で傍観していた。そのお国柄に「やっぱりイタリア人だな!」と思ったが、一体彼らはどこから来たのだろう?

先日たまたま読んでいたアラン・ムーアヘッドの「砂漠の戦争」という本でその事情がよく分かってきた。それはドブルク、ベンガジ、エル・アラメーンなど、我々にとって殆ど馴染みがない地名だが、北アフリカ戦線の激戦地である。英国軍の奇襲にイタリア軍は殆ど降参し、その奪回を図ったのがロンメルだった今のリビアである。その時に捕虜なったイタリア兵士の内、14000人がオーストラリアに送られて来たと言う。カウラの収容されたのはその一部だったようだ。捕虜の何人が母国に戻らず住み着いたのか分からない。その辺、又現地に行ったら聞いてみたいと思っている。

Monday, 11 October 2021

ガリポリの映画

そのガリポリを舞台にした映画「The Water Diviner」は中々いい作品である。オーストラリア人の父親が、ガリポリで戦死したとされる息子を探しに行く話である。ラッセル・クロウ演じる父親は、2人の息子が死亡した場所を発見し、残された最後の一人も生存している事を遂に突き止めるのであった。タイトルの意味は「占い棒で地下水脈を探す人」である。その直感を頼りに息子を探すのであるが、改めて親の愛の深さに触れたのである。生きていた息子は、兄弟を失った自責の念からずっと現地に留まっていた。日本人も「ビルマの竪琴」のような人も多かったから、戦争を境に人生が変わるのは万国共通のようだ。

映画に出て来るオスマン(今のトルコ)人は薄汚く野蛮に見えた。着ている制服は野暮だし、口ひげは不潔な感じがしてアラビアのロレンスに出て来た男色を連想してしまう。確かに夜寝ていると突然コーランが鳴り響くお国柄は、以前イスタンブールに行った時にも感じたがやはり我々からみても異文化である。ところが今度は同じガリポリをテーマにしてトルコが作った映画「The Battle Of Ocean」を見ると、事態は全く反対に映るから分からない。オスマンにとっては正に自国防衛戦で、遥々やって来た連合国は侵略者に思えてくる。終わってみればどちらも多くの家族を失った現実だけが残る事を思うと、やはり戦争は空しいの一言だ。 

今のガリポリはイスタンブールからのツアーも出ている一大観光地のようだ。オスマン帝国はあまり関心がないので行く事もないだろうが、戦争が終わった頃は遺骨収集が続いたので立ち入り禁止区域だった。映画でもその様子が描かれていて、時間の経過を感じるのであった。

Sunday, 10 October 2021

オーストラリア人とガリポリ

先日、オーストラリア政府がフランスとの潜水艦契約を破棄し、代わりにアメリカとの新たな契約を結んだ。どうやら中国の予想外の台頭に、ディーゼルから原潜に切り替えざる理由があったようだが、一方的な転換にフランスは激怒し大使を帰任させた。血は争えないと云うが、改めて英語圏の結束の強さを感じた事件だった。

思い出したのは、メルボルンの戦争博物館である。一昨年旅の途中で訪れたが、ゼロ戦を始め太平洋戦争の日本戦利品コーナーの立派さには驚かされた。特に目を引いたのは、第一次大戦でオーストラリアが初の海外遠征を行ったガリポリ(Gallipoli)の戦いであった。

オスマン帝国のガリポリ半島争奪を巡る戦いは、双方60万人近い負傷者を出す消耗戦であった。中でもANZACと称するオーストラリア・NZ連合軍の被害は大きく、オーストラリア軍の場合、派遣した5万人の内3万人近くが死傷する事態になった。何かの本で「ガリポリは気味悪い響きがする」と書いてあったが、その犠牲は予想外に大きかった。
 
当時のオーストラリアにとって、欧州での戦争は遠い地球の裏側の話だった。そのため遠征にはカンガルーまで同行し、ピラミッドの前で記念撮影するのんびりムードがあった。戦後はPKOなどを除けばオーストラリアが戦争に巻き込まれる事態はない。ただいざという時には西側、取り分け英語圏の一員としての責任と義務が付きまとう。その原点となっているのが、ガリポリの記憶である。

Tuesday, 28 September 2021

子供の友達には気を付けて

フランスのマクロン大統領が就任した時、彼の結婚話が話題になった。奥さんは彼の友人の母親で、15歳で恋に落ちてから14年の歳月を経て結婚に漕ぎつけた。二人の歳の差は24歳というから正に親子である。当時は冗談に「子供の友達が家に来ると気を付けないと!」と、世のお父さん達が心配した。ただ恋の世界は広いとは云え、これは例外かと思っていた。ところがケン・フォレットの「ピラスター銀行の清算(A Dangerous Fortune)」を読んでいると同じような話が載っていて、西洋では決して珍しい事ではないのかも?と思えてきた。

小説は美貌の母親と、南米の事業家になった息子の友達の話である。息子の友達はある時、銀行の頭取になった母親の息子に融資依頼をする。息子はリスクを考えて一度は謝絶するが、息子の友達は母親との関係を使って融資に漕ぎつけるのであった。ところが心配していた通り、それは不良債権となって銀行が潰れてしまう。物語としてはやや稚拙な処は歪めないが、恋もここまで来ると狂気である。 

小説には一昔前の英国が出て来る。サーカスの曲芸師の女が上流階級の男と結婚するサクセスストーリーや、当時台頭してきたユダヤ系の銀行に対する世間の抵抗感など、ロンドンの賭けも出て来る。一匹の犬と60匹の鼠を戦わせ、どちらが生き残るかを競うのである。最初は犬が次々と鼠をかみ殺すが、残り10匹になった辺りから犬に疲れが出始め、最後は鼠に食われてしまう。日本でも闘犬はいるが、英国では結構残虐な遊びをしていたようだ。

Saturday, 25 September 2021

コマネチの故郷

ルーマニアを旅したのは5年前だった。セルビアのベオグラードを朝発ち、ルーマニアのティミショアラに着いたのは昼頃だった。お腹が空いてたのでレストランに入った。地下のレストランで、入り口は狭いのに中は広々として小部屋が沢山あった。食事を待っていると、何処からか祈りの歌が聞こえてきた。食事を兼ねて集まった集団が歌っていて何か神聖な場所に感じた。

ティミショアラはハンガリー国境にも近いので嘗てはハプスブルグ帝国の一部だった。イスラムとキリスト教が混ざり合う土地柄、民族のアイデンティティを確認していたのだろうと思った。

それから東を目指して車を走らせ、夕方になったのでディーバという小さな町で泊まる事にした。「ホテル」の看板が中々見つからないので、ガソリンスタンドの人に聞くと、ペンションと書いた民宿を教えてくれた。ベルを押すとおばさんが出て来て、手振り身振りで話すとOKが出た。「近くに食事できる所ある?」と聞くと、「私が作ってあげる」と言うのでご馳走になった。素朴な肉料理だったが、甘いルーマニアワインを飲むと旅の実感が湧いて来た。 

そのディーバという町は最近、女子体操のコマネチの故郷だと知った。今では女子体操協会の本部が置かれているらしいが、当時はそれを知る由もなく、丘の上に聳える古城跡に登り町を見下ろした。

コマネチはオリンピックで有名になった後、チャウシスクの息子に関係を迫られ最後は米国に亡命した。そのチャウシスクも悲劇的な最後を遂げ、あれから30年以上が過ぎた。彼女の波乱万丈の人生のスタートがこの小さな町だったか!と、アルバムを見て改めて思うのであった。

Tuesday, 21 September 2021

ラドカヌとルーマニア

 先日の全米オープンテニスで、女子は18歳のラドカヌ(Radocanu)選手が優勝した。予選から勝ち上がり、本戦も全てストレートで勝ち、思いっ切りのいいショットと疲れを感じさせないプレーに若さを感じた。英国選手としては、バージニア•ウェード以来の快挙という。

聞き慣れない名前に初めは南米の人かと思った。しかし聞いていると、父親はルーマニア人で母親は中国人という。カナダのトロントで知り合った2人は、彼女が2歳の時に英国に移住したと言う。ルーマニアは昔から国を出て行く人が多かった。映画「カサブランカ」でもカジノに来た夫婦は、アメリカを目指すルーマニア人だった。若い夫が慣れないギャンブルに入る時、幸い店の主人リックに助けられて事なきを得るが、当時はドイツの侵攻が原因で体制派に追われた。

ラドカヌの父親の場合はどうだったのだろう?子供の頃はチャウシスク時代で多くの悲劇があった。人口増加策で親のない子供が街に溢れ治安が悪化したり、独裁の煽りで亡命も増えた。体操のコマネチもその1人だった。母親もどう言う事情で中国を出たのだろう?テニス選手はシャラポワやラオニッチ、嘗てのアガシやサンプラスもそうだが移民が多い。プレーも去る事ながら、波瀾万丈の軌跡の方が気になる。特にルーマニアのイメージは薄暗くて不気味なだけに、ドラキュラのように想像力を掻き立てる不思議な魅力がある。

Saturday, 18 September 2021

崇徳天皇の怨霊

大手町の一角に平将門の墓がある。昔近くのビルに働いていた頃、会社は祟りを恐れて墓に背を向けた席配置を行う事はなかったし、毎年の供養も欠かさなかった。暫く前に久々に行ってみたが、周辺の建て替えが進む最中でも、清掃とお参りに来る人は絶えていなかった。その平将門は日本三大怨霊の一つである。あとの二人は大宰府の菅原道真と崇徳天皇という。

井沢元彦を読んでいると、その崇徳天皇が面白い処で出て来た。それは明治天皇の即位である。時の明治政府は即位に先立ち、崇徳天皇が流された讃岐の白峯神社から御霊を京都に移し祀ったという。その宣明が読み上げられ、晴れて明治天皇が即位したという。崇徳天皇の時代は読めば読むほど複雑怪奇だが、その崇徳天皇の怨霊伝説は現代でも続いていて、死後800年忌の1964年に行われた東京オリンピックの前には、高松宮が讃岐の神社まで出向いて霊を祀ったというから驚きである。 

明治天皇こと睦仁は孝明天皇の子であった。孝明天皇は幕末に天然痘で突然死を遂げ、直ぐに息子が即位するかと思いきや、実際に即位したのは亡くなった1867年1月から1年半経った1868年10月であった。この空白時に何があったのか?孝明天皇までは北朝だったが、明治になると一転して皇居に南朝の楠木正成像が建ったり、こうして怨霊退治に今も国のカネが使われていたり、分からない事ばかりである。

Thursday, 16 September 2021

言霊信仰って?

昔SNSもない頃、飲み会に行く度に会の名前を付けた事がある。そもそもは次回集まり易いと思ったのが切っ掛けである。例えば友人と神谷町で飲むと「神谷会」、居酒屋の三河屋で飲むと「みかわ会」、それが9月だったら「長月会」と・・・。すると不思議とメンバーが固定され、集まりに選民意識が働く。面白いのは次第に会の名前は独り歩きし始める事である。周囲に「今度XX会があるので」と云うと、必ず「それってどういう会なの?」と聞かれ、中には「俺も入れてくれよ!」と言いだす人が出て来る。その時は勿体ぶって「会のメンバーに聞いてみないと・・・」と焦らすのが常だったが、どうでもいい飲み会が、いつの間にかエクスクルーシブなステータスを得るので可笑しかった。

確かにそれは、人が多い割にはモノが不足していた時代だった。だから人は差別化を図るべく、他人が知らない世界を求めていたのかも知れないが、それは後になって分かった事である。今の日常の中でも、意外と知らずに騙されている事があるのではないか?最近そんな思いを強くしたのが、言霊(ことだま)信仰である。例えば昨今のコロナワクチン、政府は安全だと接種率の向上に努めている。ところがワクチンの死亡保険は4420万円だから、万が一を想定している。でも政府は「ショックでお亡くなる場合もありますが、その時は保険金が払われるのでご安心下さい」とは絶対言わない。当たり前である。言った瞬間に「政府は国民を殺そうとしているのか!」と反感を買うからだ。それは「政府は一部の犠牲も容認している!」に繋がる。 

実はこの「言霊信仰」は、日本史の井沢元彦の本「日本史真髄」に出ている言葉である。氏はこの他にも「ケガレ忌避信仰」や「怨霊信仰」など、日本人の心に潜む謎に迫っていて大変面白い。悪事を水に流す日本人と死んでも罪を許さない中韓の文化など、朱子学が分かるとお隣との違いも分かってくるようだ。また一度勤めた会社を退職すると二度と暖簾を潜れなかったり、昔は離婚した娘に敷居を跨がせなかったのも、そのケガレと関係ありそうだ。大作の「逆説の日本史」はとても全部は読み切れないが、昨年は宮脇淳子に凝ったように、今年は井沢元彦に傾注している。

Monday, 13 September 2021

カジノと横浜

横浜の市長選が終わり、予想外の大学の先生が当選した。自民党が推した小此木さんが敗れて菅さんまで総理を退く原因にもなったし、元知事の田中、松沢氏も落ちる散々な選挙だった。

争点だったカジノは、これで実現は困難になった。以前からカジノについては抵抗が強かったので、妥当な結果だと思う。そもそもカジノはギャンブルや賭博と思っている人が多いが、元々は社交場の娯楽で綺麗なイメージがある。ラスベガスやマカオの大型施設はむしろ例外で、一般的にはこじんまりした佇まいである。本来カネを賭ける事はあまり得意ではないが、今まで行ったロンドンはサラリーマンが仕事の後に立ち寄る倶楽部の雰囲気だったし、フランスの避暑地ドーヴィルはモネの絵に出て来るような華やかさがあった。エストニアのタリンは外が寒いせいか、暖を求めて若者が集う場所だった。そんな文化もない国が、突然大型施設を作るIRなんてやはり無理があった。また「カジノはギャンブル依存症になる」と言われるが、もっと懸念されるのは、行く場所がない男たちの溜まり場になる事だ。朝から仕事もせずにルーレットの前でブラブラ過ごす姿を考えただけでも、廃案になって良かったと思っている。 

その横浜だが、吉村昭著「アメリカ彦蔵」を読んでいると、日本で最初に新聞が出来た町だという。破船漂流してアメリカに渡った彦蔵がアメリカの通訳として帰国し、今まで伝聞に頼っていたニュースを紙にしたのが始まりだった。面白いのは、日本語に弱い彦蔵がその道のパートナーを探すのに、外国人経営の洗濯屋の情報網に頼った事だった。その甲斐あって辞書で有名なヘボンに仕える日本人を見つける事が出来た。横浜は当時まだ寒村で、江戸に出れない外国人の街だった

Saturday, 11 September 2021

眞子様とメーガン妃

小室さんと眞子様の結婚が近づいていると、大きな話題になっている。個人的には二人の意思を尊重され、目出度くゴールイン出来ればいいなと思っている。ただマスコミで囁かれるNYでの生活が始まれば、生活費やセキュリティーなど大変なのは事実だ。小室さんの母親の借金問題もまだ燻っているようだし、悠仁様が将来天皇になれば「天皇の姉」としての立場も続いて行く。全く難問ばかりで、公家に生まれた宿命とは言え可哀そうな気がする。

眞子様はよく英国のメーガン妃と比べられる事がある。メーガン妃は離婚歴と黒人の血を引く異例の女性としてロイヤル入りをし、最近は王室を離脱してアメリカで生活を始めた。これには当初国民の怒りが高まるかと思われたが、意外にも支持する人が多く、今では皇室人気の№1はエリザベス女王を凌いでハリー王子だと言うから驚きである。そう言えば次期国王のチャールズ皇太子がダイアナ妃の死後、元愛人を妻にしたのも大きな事件だった。ただその後の様子を見ていると、国民は二人を許容している感がある。その証拠にロンドンの土産物の売店には、昔と変わらぬロイヤルの写真が売られていて買い求める人は後を絶たない。007やMr.ビーンの映画にも女王が登場するお国柄は、英国王室の日頃の努力の賜物だと思っている。

こう考えると今はパッシングを受ける小室氏だが、時間が経てばヒーローになる可能性もある。晴れて弁護士資格を得て、NYで独立出来れば見る人の目も変わってくるというものだ。眞子様にも窮屈な天皇家から離れ、NYで自由を満喫する姿が紹介されれば憧れる女性は多いはずだ。何より妹の佳子様も元気付けられる。日本人の意識も昔と大分変ってきているし、皇室が時代に合わせて変身しようとする姿に、国民は必ず勇気付けられるはずである。

Sunday, 5 September 2021

武将の末裔

幕末史に凝っていると、俳優の近藤正臣が出て来た。地味な俳優だが、彼は安政の大獄で捕らえられた近藤正慎という侍の末裔だという。正慎は僧侶の月照の行方を聞かれ、黙秘を貫いた後自害したと云う。京都の清水寺の「舌切茶屋」はその親戚が営んでいると聞いて、歴史がグッと身近になって来た。因みに月照はその後、西郷隆盛と鹿児島の錦江湾で入水して亡くなった。初めてこの男同士の心中話を聞いた時は、何か気持ち悪いものを感じた。その後の西南戦争の動きなどを見ても、西郷隆盛は往年の面影もなく病気ではなかったか?と思っている。

今に生きる芸能人が歴史上の人物の末裔だった例は多い。歌手の加山雄三が岩倉具視の玄孫だったり、スケートの織田信成が織田信長の末裔は有名な話である。調べてみると他にも結構な数がある。例えばサンドイッチマンの伊達みきおは伊達家の末裔は驚きだし、女優の釈由美子は蜂須賀小六、歌手の吉川晃司は毛利元就、松田聖子は筑後の大名蒲池鑑盛(かまちあきもり)、宝塚の寿美花代は松平定信等々。武豊も血は繋がっていないが西郷隆盛の系統を継ぐという。 

歳を取ると自分のルーツを知りたくなるものだ。系図作りの会社もあるし、これを契機に自分探しを始めたくなってきた。

Thursday, 2 September 2021

やくざと現金の町

先日、工藤会のトップ野村被告に死刑判決が下された。画期的な判決に、裁判長始め裁判に関わる人々の勇気と執念を感じだ。日頃その道の方々にお世話になることはないが、今から何年か前に仕事で小倉に泊まった時だった。数日前に地元の中華料理屋が爆破され、中国人が街から排除された頃だった。その晩はお目当ての「ごまサバ」を求めて仲間と夜の町を闊歩していると、気のせいか中華の店がないのはその為かと怖くなった記憶がある。特に手榴弾やロケットランチャーまで持っていると聞いていたので、事件に巻き込まれれば一巻の終わりである。

その日はたまたま銀行でカネを下ろすのを忘れたので、手元の現金は僅かだった。カードがあれば大体何とかなるので左程気にも留めなかったが、いく先々の店でそのカードが使えない事が分かった。ホテルも含めてどこも現金主義だった。そう言えば以前シシリア島でも同じ様な経験をしていたので、マフィアの町は似ていると思った。 

本物のやくざは知らないにしても、やくざ映画は時々見る。高倉健や渡哲也の渡世人が、ドス一本と義理人情で生きる姿は凄い迫力である。ただ正直この手の映画はあまり好きになれない。一途だが、掟に縛られて自縄自縛して行く姿にどうしても違和感があるからだ。特に戦争が終わって内地に引き揚げ、軍隊の規律から解放されたエネルギーが吹き出したのだろうか?皆んな戦争の功罪を背負っているようで哀れに映る。一度渡世人の道に入ると、二度と後戻りできないもどかしさもある。尤も新しい社会の秩序もこうした抗争から出来て来たのも事実だし、何とも不条理な世界である。

Wednesday, 1 September 2021

アフガンは遠い国

アフガニスタンから米軍が撤退した。カブール空港に押し寄せる群衆を見て、切羽詰まった緊張感が伝わってきた。各国の救援機の中に日本の自衛隊機も行ったが、結局まだ500人もの日本人が取り残されていると聞き心配だ。それにしてもイランやかつてのベトナムもそうだが、米軍の撤退には多くの人の命が掛かっている。

そんな事を友人のМさんと話していると、「タリバンは怖いよな!後藤健二さん殺害の時のオレンジ服が忘れられないよ!」と言うので、「それってイスラム国(IS)じゃないの?」「そっかー!でもオサマ・ビン・ラディンも死んだし、今は誰が指導者なのだろう?」「オサマはアルカイダじゃなかったけ?」と話がかみ合わない。そもそもタリバンとIS、アルカイダの違いもよく分からないし、アフガニスタンの国が地図上どこにあるか聞かれても答えられない。 

恥ずかしながらアフガニスタンと聞いて思い浮かべるのは、ランボーの映画「怒りのアフガン」である。でもあの時はソ連相手に戦っていたからちょっと今とは違う。最近では「ホースソルジャー」やビンラディン暗殺を扱った「ゼロ・ダーク・サーティー」も見たが、所詮は娯楽映画である。砂漠の中で髭を蓄えた男たちは元来悪役で、どうして戦っているのか考えた事もなかった。アフガニスタンが少し身近になったのは、医師の中村哲さんが殺害された時であった。テレビで特集が組まれて故人を偲んでいたが、中村さんが「タリバンは何でも壊してしまうんです。願いは一日三度の食事を取れる事です」と嘆いていた言葉が耳に残っている。相変わらず遠い国には変わりないが、これから新たな国作りが始まるしタリバンとて所詮同じ人間である。未知の国を知るにはいい機会だ。

Monday, 30 August 2021

陸奥爆沈の犯人探し

何年か前に、吉村昭の「陸奥爆沈」に魅せられて、戦艦陸奥が沈んだ瀬戸内海の現場を見に行った事がある。岩国から周防大島に渡ると、柱島が目の前に拡がる所に記念館が建っていた。意外と狭い海峡の島々に、遺体や船の遺物が流れ着いた描写と重ね合わせ、当時の様子を思い浮かべた。爆発の犯人探しを進める内に、死体が発見されなかった1人の水兵にたどり着く。昇進が遅れた遺恨が原因だったのか?海軍の調査は終わったが、吉村氏は戦後時間も経っているにも拘らず、その実家まで行き謎を追っていたのが凄かった。

その時は周防大島から四国に渡り、紫電改が海から引き上げられ現存していると言うので併せて見に行った。場所は宇和島の南の愛南町という辺鄙な町だった。暫く前にやはり吉村昭氏の「海の鼠」という短編を読んでいたら、舞台は近くの日振島という島だった。大量発生した鼠と格闘する話で、最初は鼠カゴから始まり、パチンコ罠、黄燐剤、酢酸ナトリウム、最後は天敵の蛇まで繰り出し駆除を試みるが効果はなかった。ただある時少し減ってきたかな?と思って海を見ると、何と鼠の集団が食料を求め海を泳いで隣の島に渡っていたのであった。

鼠も去る事ながら、どこまでも追い続ける刑事みたいな氏の執念を又感じたし、こんな所に住んでいる日本人の知られざる姿に接したのである。

Sunday, 29 August 2021

ノルマンジー上陸のロケ地

今まで何度訪れたか、ノルマンジーは史上最大の作戦の舞台として歴史を彷彿させてくれるお気に入りの場所である。激戦となったオマハを初めて、橋桁の残骸が残るアロマンシュの入江、フランスコマンドが急襲したウィストレーハムの港、英国コマンドがグライダーで突っ込んだペガサス橋など、当時のまま残っているからマニアにはたまらない。加えて記念館も多く、ドイツ軍の砲台トーチカ跡を見ながら、想像力を更に掻き立ててくれる。

その為、映画「史上最大の作戦」の多くはその現場を使って撮影された。ところが最大の見せ場であるオマハビーチの上陸シーンは、レ島で撮影されたと聞いて見に行った事がある。レ島はボルドーの北に位置するラ・ロッシェルから地続きで渡る事が出来る。夏のこの季節は避暑と名物の牡蠣を求めてごった返しているが、普段は正に映画に出てくる長い白浜が続く静かな島である。その時は上空から撮ったシーンと重ね合わせた後、ラ・ロッシェルの方がユグノー派を包囲した場所として有名なので、町に引き返した記憶がある。

フランスの島は歴史がギュッと凝縮されていて、自然も手付かずだから本当に美しい。ブリュターニュ地方のカルナックは古代の列石で埋め尽くされていて、英国のストーンヘンジの比ではないのに驚く。ナポレオンの生地コルシカ島にもモアイのような立像遺跡が残っていたり、そう言えば有名なモン・サン・ミシェルも島である。またいつかビスケー湾の小島巡りをしてみたいと思っている。

Monday, 23 August 2021

レマゲン鉄橋のロケ地

暫く前にドイツで大洪水が起きた。普段は小綺麗な村落が水に浸り、土砂に埋もれている光景は痛々しかった。ただライン川は昔から良く氾濫していた。原因は温暖化や異常気象かも知れないが、宅地開発が進み本来水を吸収したはずの森が無くなってしまった事が大きかった。そう昔から現地では言われていた。特にドイツの川は京都の鴨川のように、あまり人の手が加えられていない。自然を生かして美しい分、災害には弱いのかも知れない。

ヨーロッパの川は、川幅も広いし水の量が多く流れも速い。間違って落ちようものなら命は助からない。レ・ミゼラブルのジェベール警部がセーヌ河に飛び込んで命を絶つシーンがそれを象徴している。また川が国境になっているケースも多い。旅をしているとルーマニアからブルガリアに渡るのがドナウ川だったり、ドイツからポーランドはオーデル川だったり、それが良く分かる。橋を渡った処に国境検問所が建っているので、酷い時には橋から渋滞が始まっている。という訳で、川に架かる橋を落とせば敵の侵入を容易に防げるのであった。 

第二次大戦も佳境に入った頃、退却を続けたドイツ軍はライン川の橋を次々と破壊して行った。最後に残った4つの橋の一つが、首都ボンの南にあるルーデンドルフ橋であった。幸い破壊に失敗し、連合軍が確保に成功する話は映画「レマゲン鉄橋(The Bridge at Remagen)」で紹介された。ナポレオンソロのロバート・ヴォーンがドイツ側の将校で登場していた。20年ほど前に見に行った事があるが、川幅が100m以上はあっただろうか、とても泳いで渡る距離ではなかった。現在は橋台のみが残って当時を彷彿させてくれたが、映画に出て来る立派な鉄橋は一体どこで撮影したのだろうかと兼ねがね思っていた。最近調べてみたら、何とチェコのプラハ郊外のDavleだと分かった。ロケ地巡りを趣味としている者にとって、「いつか行きたい場所」なっている。

Saturday, 21 August 2021

二本松の戦い

仔犬を引き取りにまた福島に行った。これで春から3回目の磐城旅行である。そんな事もあり、今まで殆ど知らなかった戊辰戦争も大分身近になってきた。今回は会津への進撃の前哨戦になった白河、二本松を訪れてみた。特に二本松藩の戦いはあっさり半日で終わってしまったので、会津が動揺したと何かに書いてあった事もあり是非行ってみたかった。ところが行ってみると山間に佇む静かな町には、小高い山の上に城壁跡が残る以外、何も観光スポットがなかった。戊辰戦争の死者数は1万人当たり50人と、会津藩の150人に次ぐ大きな犠牲者を出した割にはその痕跡もなかった。

戊辰戦争は板垣退助率いる新政府軍が最新の武器で破竹の進撃を続け、当初は抵抗を試みた奥羽越列藩同盟も徐々に道を開けるようになった。その中で最後まで戦いに抜いたのが二本松藩だった。結局老以下全員が討ち死にしたが、渡部由輝の「数学者が見た二本松戦争」によると、それは日本の藩で唯一だったという。初めは図書館で借りて読んだが、中々面白い本だったのでアマゾンで取り寄せようとしたところプレミアムが付いて5000円もしたので諦めた。やはりその道の人の目の付け所が違うなと思った。降参した藩士が翌日から最前線に送られ、昨日までの同志と対峙する当時の様子が何とも生々しく、行くも地獄、帰るも地獄の厳しさが伝わってきた。 

それにしても、鳥羽伏見の戦いで新政府軍と旧幕府軍の決着は付いていたのに、どうして戊辰戦争が始まったのだろうか?色々書物を読むうちに、それは長州の怨念のように思えてきた。長州藩は禁門の変で処分を受けたのにも拘わらず、第二次長州征伐で更なる追い打ちを掛けた会津が許せなかったのではないだろうか。そう言えば、新政府軍の東征大総督だった有栖川宮熾仁親王も、許嫁の和宮を徳川に取られた恨みが討伐の大きな動機になった。歴史は個人の思惑、私情を追うと分かり易い。