ところでナイキは靴を作る前は、日本のオニツカの輸入販売店だった事は意外だった。オニツカは60年代の東京オリンピックを契機に飛躍したスポーツシューズメーカーだった。当時陸上競技をやっていたので憧れのスパイクであった。ナイト会長のスタンフォードの論文も、「カメラで日本がドイツを凌駕したように、スポーツシューズでもそれが可能か?」だったから、昔からの思入れが大きかったのが功を奏したようだ。そう言えば、赤と青のストライブはどこかナイキのデザインと似ている気がする。
Sunday, 13 December 2020
ナイキの創業逸話
やはりBSテレビで、「ナイキを育てた男たち~Shoe Dogとニッポン~」も面白かった。創業時に資金繰りで困っていたナイキに手を差し延べたのが、日商岩井のポートランド支店だった。銀行から融資を断られたナイキを、新任の駐在員が商社金融で救った。凄かったのは、Bank of Californiaが手形回収の貸しはがしを図った時、支店の財務担当が独断で全額肩代わりした事だった。ナイキはそれで危機を逃れ、その後のジョギングブームで軌道に乗り今に至る大企業になった。肩代わりの金額は確か1億9千万円だった。当然本社の決裁が要る処だが、担当者はそれをしなかった。一つ間違えれば越権行為どころか大きな背任で犯罪になる。そのリスクを取った人がテレビに出ていたが、ヒーローと見るか懲罰者と見るかは今でも分かれる処だ。ただ犠牲がないと成功もない。No Pain, No Gainの諺が頭を過った。
ナイキは今でこそ大企業だが、当時のスポーツシューズはアディダスやピューマの時代だった。思い出したのは、そのアディダスを買収したベルナード・タッピ(Bernard Tapie)である。日本ではバブル絶頂期の1990年、フランスの実業家がドイツの看板企業を買収したと話題になった。タッピ氏はサッカークラブのオリンピック・マルセイエーズを買収するなど辣腕を振るったが、その八百長事件で失脚し収監も経験した風雲児である。パリのサンジェルマンにある大邸宅が差し押さえになったというので見に行った事もあったが、エネルギッシュな人だった。その点同じ業界とは言え、ナイキの創業者であるナイト会長はこの道一筋の人だ。
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