何年か前にタリンに住んでいた時だった。それは冬の寒い日、眠れないので近くの居酒屋に一杯飲みに行った。中に入ると、大勢の人が集まっていた。近くの人に「これは何かの会ですか?」と聞くと、「今日は建国記念日だ!」と言う。皆んな静かに、この日を祝っているのが伝わって来た。ベルリンの壁が崩壊して20余年経った頃だった。1百万人の小さな民族だが、こうして生き延びていた。
そもそもエストニアなんて国は元々無かった。民族はどこかの大国の傘下にあり、農奴として分散村と称する森の中に住んでいた。直近はソ連、今でもあちこちに痕跡があるコルホーズの集団農業に従事していた。ヒットラーのドイツになった時は、少し希望が射したが直ぐ終わってしまった。その前が長いロシア時代、嘗てはスウェーデンやデンマークの支配もあった。スウェーデン時代は、学校や町も作ってくれたから一番良かったようだ。一方ソ連は、住宅の不法占拠や追放・破壊の暗い時代だった。市内にある歴史博物館には、ガランとして殆ど展示物がない。それは農奴と金銀財宝、芸術は無縁だったことを正直に語っている。
今でも国にはロシア人が住んでいるが、あまり好きな人はいない。ただ相手は大国だし、またいつ国境を越えて来るか分からない恐怖心が強いから、心の中ではそう思っても、表立って悪口は言わない。その点、同じく併合された韓国とは対照的である。その違いがどこから来るのか?一つは階級制度の有無、エストニアは皆農奴だったが、韓国は両班をトップにした階級社会があった。百田尚樹さんが、韓国人に先祖が何だったか聞くと、殆どの人は両班と応えると言っていたが、抑圧され続けた反動が今でも生きているような気がする。もう一つは地政学である。エストニアは陸続きだが、韓国と日本は海を隔てている。海に向かって叫んでも怖くない!そんな距離感も、無遠慮な原因かも知れない。
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