オーストラリアと日本の戦争で、欠かせないのはカウラ(Cowra)の収容所である。シドニーから車で3時間余、戦時中に日本人捕虜を収容した場所である。有名にしたのは、日本人捕虜が集団脱走し、230余が命を失った事件である。ただでさえ広大なオーストラリアの地にあって、カウラは海岸から遥か離れた奥地である。脱出といっても逃げ場がない事から、当時は何と馬鹿げた行為と思われた。しかし次第にその動機の解明が進み、捕虜としての恥に耐えきれないものだった事が分かり、当時の日本人の考え方に理解も寄せられたのである。同じ頃収容されていたのが、北アフリカから連れて来られたイタリア兵であった。こちらは只管終戦を待って暮らしていたというから対称的だったようだ。
町の外れに日本人墓地があるというので、お参りして帰ることにした。行ってみると一人一人の名前と歳が刻まれたプレートが、日本の方向を向いて並んでいた。若い人だけでなく、結構年配者も多かった。それにしても誰がこんなにきちんと管理しているのだろう?茶道裏千家の寄贈もあったり、日本人として現地の人に感謝の念が沸いてきた。終わってから町の案内所に行くと、係りのおばさんが、「カウラ市から日本の成蹊高校に、交換留学で今まで50名も行っているのよ。私も昨年吉祥寺に行ったわ!」と楽しそうに話してくれた。
今の時代は平和だ。その日の午後は、折角なのでカウラゴルフ倶楽部で18ホールを廻ることにした。こうして気軽に日本人旅行者がゴルフしている姿なんて、当時の収容されていた人が見たらどう思うのだろう?そんな事を考えながらボールを追った。それにしても、当時の日本兵の心境は異常だったのだろうか?そう言えば、自身も昔、海外赴任の際に盛大な送別会を披いてもらった事を思い出した。ところが1年位で帰国することになり、何ともバツの悪い思いをしたことがあった。「今更日本には帰れないな!」、正にカウラの日本兵と同じ心境になった。確かに、帰国すると周囲は白々しく距離を置く感じがしたから、強ち思い過ごしではなかった。時代は代われど、日本人の島国根性は変ってないかも知れない。
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