オウムの残り6人の刑が執行された。マスコミの処刑された被告に同情する発言や、死刑制度の是非などに言及する風潮が気になる。そうした厭世感は事件から20年以上も経った事から来るのだろう。時間が経つと、被害者やその家族は普通の生活に入り、被告も事件前の姿に変る。憤りや罪意識も人間だから次第に変化する。そんな無為な時間が人の判断を惑わす・・・、やはり刑は数年で執行しないといけなかった!
そんな中、吉村昭著「ニコライ遭難」を読んでいたら、同じような裁判の話があった。時は明治24年、ロシアのニコライ皇太子が来日した時、大津で津田巡査に切られる事件が起きた。幸い皇太子は一命を取り留めたが、日本国中が大騒ぎになり、天皇も自ら収拾に尽力した。政府はロシアの怒りに配慮して死刑を望んだ。しかし刑法では無期懲役、死刑を執行するには皇室罪の適用が必要だった。政治と司法が真っ向から対立し、最終的に司法の主張が通って無期になった。近代化が始まったばかりの日本だが、改めて当時から真っ当な判断が働いていた事に感心したのである。
余談だが、本では相変わらず吉村さんの丹念な取材が光っている。例えば皇太子を救った2人の車夫は、その功績を湛えられ高額な報奨金と年金が与えられた。しかし一人は散在して紙屑拾いに、もう一人は日露戦争が始まると国賊扱いを受けるなど、その後の人生も翻弄された。又長崎にお栄というロシア語が出来る女がいて皇太子の通訳をした。若くしてロシア艦隊の女給仕になりウラジヲストックに渡り、そこで日本から持って行った真珠を高く売り財を築いたという。また皇太子は京都など先々の村や寺に、今で云う10~20万円をポンポン寄付し、京都の買い物代は2億円相当など、本当に良く調べている。西南戦争は終わったが、西郷生存説が脅威だった事、津田の犯行動機が西南戦争の死者を祀った碑にロシア人が足を掛けた事など、当時が浮かび上がって来る一冊だった。それにしても、それから10年ちょっとで日露戦争が始まったので平和な時代だった。
No comments:
Post a Comment