暫く前に吉村昭著「陸奥爆沈」を読んだ。1943年6月8日、戦艦陸奥は瀬戸内海で謎の爆沈を起こした。製造から時間は経っていたが、40センチ砲は戦局が急を遂げる中、大和に次ぐ規模だった。事故を巡って自然発火説、スパイ説など様々な調査が行われたが、結局捜査は謎に包まれたまま終わった。
そんな中、吉村氏は人為的な犯行説を取っていた。小説ではQ二等兵層と紹介されたいたが、盗みの嫌疑を掛けられた男が、証拠隠滅の為に弾薬庫に忍び込んで放火したという。当時も海中の船体から、同室に居た兵士の遺体を引き上げ調査した。その結果、Q二等兵層だけは見つからなかったというのが有力な証拠になった。氏の凄い処は、Q二等兵層が出た村まで訪ね、ひょっとしてその後も生き延びているのではないかと、男の足跡を追うのであった。
そんな人間臭い話に魅かれたのか、その陸奥記念館に遥々行ってみた。広島から車を走らせること2時間、周防大島に渡るとそこからまた30㎞、辺鄙な半島の先端だったが、流れ着いた遺品や、天皇を迎えた時の写真などが展示されていた。聞くと、そこは陸奥が沈んだ地点に近いと言う。その日はまた来た道を引き返したが、翌日今度は柳井港から松山の三津港まで行くフェリーに乗った。右手に昨日走った海添いの道が見え、左側に陸奥が出港前に停泊した柱島が見えてきた。Q二等兵層の動機と重ね合わせ、当時の様子が身近に迫って来たのであった。
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