Tuesday, 31 October 2017

Kiss of Fire

知り合いから「Kiss of Fire」という高級日本酒を頂いた。立派な箱に入っていて、何やら山中教授がノーベル賞の授賞式で振りまわれた酒という能書きが入っていた。銘柄が英語なのはアメリカ向けの輸出品らしい。酒蔵は石川県の「常きげん」と知ると、なんだ!と思う。飲んでみると確かに美味しいが、これを海外に持って行ってしまうかと思うと、複雑な気持ちになる。

今や日本酒も国際競争の時代だ。そう言えば、オバマ大統領が来日した時、銀座の数寄屋橋次郎だったか、出されたのは広島の「賀茂鶴」だった。またプーチンが山口に来た際に安倍首相が振る舞ったのは地元の「東洋美人」だった。要人が飲んだと聞くと、野次馬のように一度は味わってみたくなる。酒ばかりでなくレストランもそうだ。大昔にカーター大統領が来日した時、お忍びで六本木の焼き鳥屋に行った。グルメのカーターさんならではの行動だったが、以来「串八」という小さな焼き鳥屋は有名になった。これもミーハー根性で何度か行ってみたが、六本木交差点近くのビルの2階で、適度な暗さが何とも落ち着く店だった。

オバマさんはあまり飲まなかったようだし、プーチンに至っては毒殺を警戒して料理にも箸を付けなかったし、温泉にも入らなかったという。だから本当に東洋美人を飲んだか疑わしい。山中教授もどうだったのか?ただ事の真相は兎も角、Kiss of Fireを飲むと、ノーベル賞授賞式に出席しているような気分になるのは確かだ。

Monday, 30 October 2017

サンドラを思い出し

そのカタルーニャは、地中海を隔ててフランスの南部ピレネー・ルシヨン州と国境を隔てている。ピレネーはフランスとスペインの国境の山岳地帯で、多くの中世の村が残っている旅の宝庫である。有名なのはあのカルカソンヌの城塞である。「カルカソンヌを見ずして死ぬことなかれ」と言われているように、ほぼ完璧な中世が保存されている。近くにはロートレックの故郷のトゥールーズもある。近年は英仏で開発した音速ジェット機コンコルドの縁から、英国人が移り住んでいる。ただ所詮山の中の寂しい町である。ロートレックがパリに出て行ったのも頷ける。

そのピレネーだが、海岸線はもう少し華やかだ。コートダジュールからプロヴァンス地方を経て、バルセロナに抜ける美しい海岸線である。随分前だが日本で知り合った放送作家のフランス人がいた。日本のオタクやアニメなど独特の文化を映像にしていた。その彼がピレネー海岸線のコリウールが美しいと教えてくれた。だったらばと訪れた事があった。プロヴァンスの闘牛で有名なニームから車で2~3時間、眩しい湾に佇む絵のような港町であった。

そこから暫く南下するとスペイン国境のカタルーニャで首都のバルセルナに着く。国境が無ければフランスと何ら変わりない風景である。その昔、部下にサンドラという名前の女性がいた。スペイン人だったが、両親は彼女を産む前日に越境しフランスの病院で生んだ。そのため彼女はフランス国籍を取り、フランス人としてパリで会計の仕事をし始めた。今から思えばカタルーニャの人だったのだろうか?体形は太めで濃い睫毛、兎に角陽気で良く喋った。ひょんな事で彼女を思い出した。

Sunday, 29 October 2017

カタルーニャの事

カタルーニャの独立を巡る投票が行われ、独立支持が多数を占めた。一方、スペイン政府は州知事を罷免するなど対立が続いている。遠い国のことでどうも実感が沸いて来ないが、どうやら問題の一つは経済のようだ。カタルーニャの経済はスペインで豊かな方なので、本来享受すべき対価を貰っていないという不満だ。それはEUであればドイツ人やフランス人、日本で云えば東京が高い高速道路料金を払っている不満と似ている。

もう一つは言語である。現地語が禁止されスペイン語の使用を義務付けていることだ。経済の方は仕方ないかな?と思うが、こちらの方は同情してしまう。バルト諸国でも独立を果たすと、公式言語がロシア語から現地語に変わった。すると旧ソ連の人達は、現地語が出来ないので学校の試験はおろか、就職にも支障を来たすことになった。アイルランドのゲール語もそうだったが、言語の制約は社会への参加を閉ざす威力がある。

カタルーニャ出身の偉人は多い。あのミロやダリ始め、アント二・ガウディ、チェロのカザルスもそうだ。以前、カザルスが国連で奏でた「鳥の歌」をYouTubeで見たが、その時のスピーチで「鳥はピースピース(Peace)と鳴く」と故郷の運命を語っていたのが印象的だった。きっと我々の知らない世界があるのだろう・・・今回のニュースを聞いてそんな思いがした。

Wednesday, 25 October 2017

村田のリベンジ戦

最近感動した事、それは何と言っても村田涼太選手のエンダムとのリベンジ戦だ。ボクシングにはあまり縁がないが、数カ月前の不可解な判定から流石に気になっていた。その再試合は、ややもすればボクシング人生が終わってしまう一戦だった。この間の重圧は計り知れないし、それに耐えて見事やり遂げた。終わった瞬間、開放感から涙ぐむ彼の勇姿にグッとくるものがあった。

村田選手は渡辺謙さんとのドコモのテレビCMで知った。コーチ役の渡辺さんが自転車で伴走し、ジョギングする村田を励ますシーンだ。思わず村田も笑ってしまう真剣度だったが、その彼の爽やかさに魅かれた人は多かったのではないだろうか?

リベンジと聞くと日本では忠臣蔵の四十七士が有名だが、モンテ・クリスト伯、アドリア海の復讐、ジェフリー・アーチャーの「百万ドルを取り返せ!」など数えきれない。永年の不憫に耐えて無念を晴らす、この痛快さは万国共通のようである。それにしても、あの村田の終わった顔は本当に良かった。

Tuesday, 24 October 2017

なんばの牧水

大阪に行くと必ず寄る店がある。なんばの法善寺横丁近くの「牧水」という酒処である。高い天井と古めかしい日本家屋で、とても落ち着く。結構大きな店で、年配の女将さん達は和服を着ている。先日も半年ぶりに訪れた。

まだ時間が早かったのか、客は殆どいなかった。静かな店内は、やかんから昇る湯気の音だけが聞こえて来る。暫しメニューを広げ、寒かったので酒はぬる癇にしてもらった。聞くと、剣菱、賀茂鶴と神戸の香住鶴があるという。聴き慣れない銘柄を試しに飲んでみることにした。それが中々円やかで美味かった。「酒蔵はどの辺にあるの?」と女将さんに聞くと、「日本海の方ですよ」という。恥ずかしながら、それまで兵庫県の海は瀬戸内海だけかと思っていた。思わぬ発見に暫し地図を眺めたりした。

この日の料理はハラスと熊本の馬肉を頼んだ。どちらも味が濃く、香住鶴との相性が良かった。3合程飲み店を出た。辺りを歩いているのは今や中国人の観光客ばかりである。そんな中、ゆっくり日本を味わえる場所があるのは本当に有難い。

Friday, 20 October 2017

アルバトロスの話

吉村昭氏の「漂流」では、よくアホウドリが出て来る。アホウドリは、12年間孤島に生き延びた男の島で唯一の食糧源だった。来る日も来る日も生のアホウドリを取って食べ続けた。アホウドリはその名の如く、簡単に捕まえることが出来るらしい。ただ人によっては暫くして足腰が立たなくなる病気に犯されるいう。ともあれ、これを覚えておくと無人島で生きることが出来る。

そのアホウドリだが、「80日間世界一周」の作者、ジュンヌ・ベルンの「征服者ロビュール(原題:Robur Le Conquerant)」にも出て来る。主人公の乗る飛行船の名前がアホウドリ号である。物語は、エンジン付きに飛行船で世界一周し、日本も江戸の上空も通過する。書かれたのは1886年で日本では戊辰戦争の頃だった。その年は本当に江戸だったのだろうか?と調べてみると、何と1886年に江戸から東京に名称変更が成された。ベルヌの記載は正しかったことになる。因みに、(解説にもあるが)ライト兄弟の飛行成功が1903年だから、空想とは言え著者の先見性は凄かった。

そのアホウドリだが、英語はアルバトロス(Albatross)である。今ではすっかりゴルフ用語である。そう言えばバーディ(Bardie)やイーグル(Eagle)も鳥に因んだ言葉である。ベルンの飛行船がどうしてアホウドリ号なのか、またどうしてゴルフと鳥なのか、どちらもよく分からない。

Thursday, 19 October 2017

関口台町から目白へ

椿山荘に行った序でに、辺りを散歩した。関口台町からの一帯は子供の頃住んだ懐かしい場所である。椿山荘から目白通りを隔てて聳えているのは、聖マリアカテドラル大聖堂である。かの丹下健三が東京オリンピックの前後に造った東洋一の教会である。コンクリートで出来てはいるが、聳える鐘楼は下から見ると捻っている。吉田茂の葬儀には、町内の多くの人が献花に来たという名所だ。
 
それから目白通りを目白駅に向かうと老松町である。昔は水梅という大きな八百屋があった。今ではマンションになっているが、小石川高校を出た2代目が継いでいた。大学進学を諦めていたのかも知れない優秀な八百屋だった。彼は若い頃近くの田中角栄邸に良く出入りしていた。そんなある日、角栄さんの目に留まり、可愛がってもらったという。その角栄邸も今では小さな門構えになってしまった。昭和の30年代は角栄さんで町内会が潤っていたことが懐かしい。
 
有名人は俳優の小堺一機である。当時からヤンチャで女の子のスカートを捲っていたようだが、従兄のお姉さんは学校で一番成績が良かった。中華料理屋を継いだK君、目白グラウンドの管理人の息子T君、印刷屋のF君、乾物屋のTさん・・・が今でも出て来そうだった。鳳山酒店、岡田理髪店、岡崎耳鼻科・・・今でもニ代目三代目が頑張っている。それにしてもポンジョ、独協、川村短大、学習院、ちょっと離れて教育大、ワセダと流石文京区だけあって学校が多い。都電も走っているし、陸の孤島だが緑多いいい地域だ。

Sunday, 15 October 2017

絹と武士

古本屋で見つけたライシャワー大使の「ザ・ジャパニーズ・トゥディ(The Japanese Today)」と、ハル夫人の「絹と武士(原題:Samurai and Silk)」を続けて読んでみた。どちらも今から30年程前に書かれた。

The Japanese Todayは所謂外から見た日本人を描いている。かつて日本人はイザヤ・ベンダサンやルース・ベネディクトを通じて自身の姿を初めて知った時代があった。それに比べと驚きは少ないし、それから又30年も経つと、今は少し違った日本人になっている気がする。しかし所々にユニークな視点がある。例えば日本人は酒を飲んで酔っ払う事を無礼講とする風土がある。それは閉ざされた社会の息抜きであるが、日本人の食生活は酵素が不足し低脂肪なので酒に酔い易いと言っている。果たして本当だろうか?

一方ハル夫人の本は、両親の松方家と新井家を描いたもので、著名な家系図は幕末から明治に至る日本史そのものである。有名な松方正義のみならず、国際文化会館の松本重治氏や駐米大使の牛場氏、森村財閥、三菱の岩崎弥之助など、キラ星の如くである。こうした星の下に生まれた人には敵わない!と改めて思った。英語はNHKのラジオを聞いて学んだり、西町インターナショナルに子供を通わせたり、大衆のやる事に思えて来た。それにしても開国後の日本人の変わり身の早さといい、その立派な仕事ぶりといい、当時は凄い時代だった。

Saturday, 14 October 2017

ハイチの日系選手

先日、ジャパンサッカーの親善試合ハイチ戦があった。大勝を予想していたが、結果は散々で3-3の引き分けに終わった。W杯への候補選びが熾烈になるさ中、これで終わった選手も多かったのではないだろうか。そのハイチ選手の中に日系人がいた。どんな軌跡を辿ったのか知らないが、意外な処に意外な人がいるものだ。

意外と言えば、あのモンテ・クリスト伯の作者アレキサンダー・デュマ(Alexandre Dumas)もルーツはハイチである。デュマのお爺さんは、当時フランス領だったハイチでカカオのプランテーションを営んでいた。そこの奴隷女性との間に生まれたのが、(やはり同じ名前の)父親デュマだった。彼はナポレオンに仕える軍人になり将軍まで登り詰めたが、フランス社会で黒人が生きるのは容易でなかった。その辺は、「ナポレオンに背いた黒い将軍(原題:Glory Revolution, Betrayal and Real Count of Monte Cristo)」に書かれている。当時ハイチはサン・ドマング(Saint-Domingue)と呼ばれ、スペインから引き継いだ黒人奴隷の貿易地だった。デュマの母親もその奴隷の一人で、マリーという名前は、Marie du mas(農家のマリー)から来たという。

父も作家のデュマも、その母親の名前を使い続けた。モンテ・クリスト伯はフランス革命を舞台にした復讐劇であるが、父母の生い立ちと無関係ではなさそうだ。小説は孤島の財宝やバルカンの首領の娘の庇護など、エキゾチックな彩が何とも言えない。かのサッカー選手も一味違った生い立ちだ。これからどんな人生が待っているのだろう。

Thursday, 12 October 2017

高速の追突事故

今週、4カ月前に東名高速で追突されて死亡した夫婦の事故結果が発表された。言いがかりをを付けた男が高速道路で前に入り停車、車から降りてヤクザ紛いをやっている内に、後ろから来たトラックが衝突した事が判明した。普段、良く高速道路を使っている者にとって、それはとても他人事ではなかった。数年前にやはり同じような目に遭ったことがあった。それは関越道だったが、全く脈絡はない中、邪魔する意図を以て絡んできた車がいた。幸いいつの間にか離れたが、常軌を逸している輩は怖いものだ。

しかしこんな事は滅多にない。海外でも随分運転したが、似たような経験は殆どなかった。唯一この夏のスロベニアの山奥だったか?一車線の登り車線でトラックがパッシングを掛けて来た。時速は60Km程で凡そ追い抜ける状態ではなかった。それもくねくね曲がる山道だ。しかしトラックはその内に並行して走るようになり、クラクションを鳴らし前に入れろと強行し始めた。逆方向から車がくればお互い一瞬で終わりのシーンだったが、すかさずブレーキを踏むとスッと前に入って九死に一生を得た。未だに何故あんな事をされたのか分からない。

それ以外は怖い思い出はなかった。切れる処までは行くのは日本ならではなのだろうか?フランス人のドライバーが怒るとハンドルを離すことがある。それは相手に抗議する時に、オララー!と両手を挙げて叫ぶ習性があるからだ。それを高速道路でされると参ったものではない。また「お前は馬鹿だ!」の仕草は、右手の人差し指を自身の頭に向けピストルのネジのようにクルクル廻す仕草もある。どちらも危ないが、所詮コミカルに感じる。

Wednesday, 11 October 2017

アメリカとパリ協定

アメリカのトランプ政権がパリ合意の見直しに入った。具体的には石炭火力の継続である。折角お金と時間を掛け、世界が京都議定書以来の合意に漕ぎ着けた矢先だった。もったいないというか瓦解感は否めない。そんな中、先日東京で開かれた「クール・アースへの革新会議(ICEF)」を覗いてみた。久々に見る温暖化防止の最先端である。聞いていて風力と太陽光発電の時代になったか?という印象を持った。

インドでは風力の単価が石炭より安いというし、英国でも石炭の割合が10%を切っているという。本当か?と思うが、昔に出席したボンのCOP6では殆ど国別のキャップ議論に終始していたことを思うと隔絶の感があった。正に10年ひと昔、時代は学者の手法論議から実務家のビジネスへと確実に移っていた。今回は田中さんという元IEAに出向していた人が議事を進めていた。10年前は川口外務大臣だった。どちらも流暢な英語で仕切っていて頼もしい。日本のプレゼンスが掛かっているだけについつい応援してしまう。

日本は平地が少ないから、風力の羽や太陽光のパネルを置く場所が限られている。欧州のように電力融通も出来ないから、自ずとハンディのある協定だった。石炭は所詮燃やしてもCO2ゼロだったら問題ないだろう・・・そうした技術に磨きを掛けるチャンスが又出て来たかも知れない。今回の事はそう捉えたい。

Thursday, 5 October 2017

カズオ・イシグロの受賞

先程、今年のノーベル文学賞が発表され、カズオ・イシグロ氏が受賞した。有名な人とは知っていたが、ジャンルが違ったせいもあり、今まであまり関心は無かった。ところが数年前だったか、ロンドンの町を歩いていた時、とあるイギリス人から「イシグロは素晴らしい!」と言われ、バックの中から本を取り出し見せられたことがあった。見知らぬ人だったので、何か下心があるのでは?と勘ぐったが、どうやら純粋に日本人に気持ちを伝えたかったと後で分かった。

それから、代表作の「The Remains of the Day(翻訳:日の名残り)」を読んでみた。確かイギリスの執事が語る物語だったが、何かかったるくもどかしかった記憶がある。ただ物語の中に、ドイツの英国大使リッペントロップが登場する場面だけはハッとした。リッペントロップは、あの1939年の独ソ不可侵条約の立役者である。戦争が始まる前は、一外交官としてイギリスに駐在していた。

本はその頃の英国の上流社会を辿っていたが、それ以外は掴み処がなかった。日本語でなく英語で読んだ方がニュワンスが伝わって来るのかも知れない。

Wednesday, 4 October 2017

銀翼のイカロス

連日、小池都知事の希望の党の話題で尽きない。突然の民進党の解党には驚いたし、全く政策もない党に入る人達のにも飽きれてしまう。恐れ多くも先日まで議員をしていた政治家である。いくら選挙が近いとはいえ、無節操というか、人として信じられなくなる。

そんな矢先、仕事仲間のIさんが池井戸潤の「銀翼のイカロス」を貸してくれた。暫く前の本だが、その民主党が迷走したJALの再建をテーマにしている。お馴染みの半沢直樹が、銀行員とは思えない痛快さで大活躍する。政権を取った民主党は、銀行団にJALの債権放棄を迫る。名を上げたい代議士が裏で暗躍するのだが、結局は上手くいかずに再生機構に引き継がれる。終わってみれば、タスクフォースの費用10億円までJALに負わせるなど、結果は散々だった。例の有名な仕分けもそうだったし、素人のやることだった。

今回の希望への移籍も、それに近いものを感じる。イカロスは自身を過信したために溶けて落ちる鳥の神話である。民進党の人達を見ているとそのイカロスにも見えて来る・・・。

Sunday, 1 October 2017

1%の妬み嫉み

最近は、また吉村昭氏に凝っている。「漂流」は南方の孤島で12年を生きた男の話であった。島には流れ着いた船乗りがやって来るが、お互い生死を彷徨っているにも拘わらず礼儀が伝わってきて快かった。辿り着いた男達は対馬の出身で、その中に結婚寸前の男がいた。彼は嫁を「腰担ぎ」で決めたという。腰担ぎは初めて聞く言葉だったが、男に頼まれた村の衆が女を浚う習わしであった。北欧のバイキングと違い、狭い対馬の言わばゲーム感覚儀式で微笑ましかった。


「大本営が震えた日」は真珠湾を前に、戦艦武蔵の図面が消失した話である。舞台は長崎造船所、良く吉村氏が犯人を探し当てたと感心した。その動機は単純なもので、「陸奥爆沈」の男と同じ出世根であった。ムシャクシャして図面を燃やしてしまったことが、真珠湾を前に凍り付いた事件になった。

「空白の戦記」では、日本海海戦を終えた戦艦三笠が、湾内で爆沈した裏話を紹介していた。こちらは火薬庫と酒を飲んだ際に引火した話だが、どれも共通するのは99%は管理しても、所詮はヒトのやることである。最後の1%は妬み嫉みの感情の世界になる。”事実は小説より奇なり”、吉村さんの凄いのは、その1%の世界を刑事のような執念で発掘している。