Wednesday, 30 August 2017

東大コンプレックス

暫く前は吉村昭氏に凝っていた。探偵みたいな緻密な取材から、予想もしなかった事実が浮かんできて、それを物語化にする凄い人だと思った。その吉村氏だが、学歴は開成を経て学習院大中退だった。本の中にも体が悪かったので思うように行かなかったことが書いてあった。ただ学習院大には一番の成績で入学したと、とあるエッセーの中で書いていた。

その時、「ここまで有名になった人が、どうしてそんな事に拘るのだろう?」と不思議に思えた。しかし最近、旧知のKさんと飲んだ時にも同じような事を聞かされた。Kさんは慶大を出たビジネスエリートで大変な成功者だが、東大に落ちたらしい。でも最近になって「都立高校には一番で入った」と言い出した。受験をしたことがない者にとって、そんな事はどうでもいいことだったが、70歳を超えた今、何故そんな自慢話をし始めたのか、これも理解できなかった。ひょっとして、晩年を迎えると自身の生きた証が欲しくなるのかも知れない。

所詮、東大に入ってもそのコンプレックスが続く人は山ほど見てきた。会社に入った時、マンツーマンは東大の法学部を出たIさんだった。Iさんは開口一番、「僕は公務員試験の順位がXX番だったから、この会社に入りました・・・」と言う。聞いている内に、「だったら俺はどうなるの?」と逃げたくなった記憶がある。そんな誰もが不幸な気持ちで生きている社会を、改めて考えさせられた。

Tuesday, 29 August 2017

占守島の真実

新しく出たPHP新書「1945占守島の真実」を読んでみた。ポツダム宣言を受諾してから、ソ連が千島列島に攻めて来たので、それを迎撃した実話だ。帰国できると喜んでいた兵士の多くは殉死し、残った人はシベリアに抑留された。その過酷な運命は、正に体験した人でなければ分からない世界で、こうして本になって始めて伝わってくる。

シベリアの強制労働はスターリンの意向だったという。彼の独裁と粛清は有名な話だが、バルカンを旅していると、その残虐性の原点は正教の宗教と関係しているように思えてくる。つまりキリスト教は神を司る法王と実務の皇帝が分かれていたが、正教では両者が一体だった。そのため、権力を握るとオールマイティになり、人をして歯止めが効かなくなったと言う説である。何となく分かる気もするが、そのソ連も昔から正教だった訳ではないから複雑だ。それは、ビザンチンがオスマン帝国に敗れた辺りから、東ローマ帝国の威光をロシアが受け継いだからだ。

そう思うと、占守島で戦死した人、捕虜となってシベリアの寒さで亡くなった人、それは歴史のイフではないが、ビザンチンがオスマン帝国に滅ぼされなければ、その運命に出会わなかったかも知れない・・・ということになる。余りの飛躍だが、未だ旅の熱が冷めないのかもしれない。

Monday, 28 August 2017

ノヴァ・ガルシアの38度線

北朝鮮は、第二次大戦後に米ソが設定した38度線から生まれた国である。未だに東西の冷戦を引きずっている化石のような国だ。先月バルカンを旅した時、同じような国境の町を訪れた。それはイタリアとスロベニア国境のノヴァ・ゴリツァ(Nova Gorica)という小さな町だった。

第二次大戦が終わり、ヨーロッパでは米ソが東西の国境を設定した。所謂鉄のカーテンだが、その一つがノヴァ・ゴリツァだった。パリ条約で1947年に突然町の中に国境線が引かれた。当時はスロベニアでなくユーゴスラビアだった。市民は普段通っている道路が鉄条網で閉鎖され、兵士が監視で立つようになったのを見て、初めて事態の深刻さを目のあたりにしたようだ。以来、70年に渡り、イタリア側は自由に発展し、ユーゴスラビア側は統制経済の下に時代に取り残された。

今では駅の前に埋め込まれた墓標と、申し訳け程度の記念館が残っている。あまり訪れる人も殆どいないのだろうか、恐る恐るドアを開けると真っ暗な中に係りの人が座っていてビックリした。中には当時の米軍が鉄条網を轢く光景や、国境で記念撮影する新婚の写真が飾られていた。折角なので、70年前に霧消した墓標を跨いで当時を思い浮かべた。国境は2004年にスロベニアがEUに加盟した際に無くなったが、朝鮮半島の38度線は残っている。どちらも大国の利害に翻弄されたのに、未だにその過去を引きずっている人々がいるかと思うと、少し不憫な気持ちになった。

Sunday, 27 August 2017

Sさんの乗馬

久々にSさんと馬を乗りに行った。Sさんは元大学の馬術部だ。「厩舎の掃除なら俺の右に出る奴はいない」と豪語する本格派である。その大きなビール腹からは凡そ想像出来ない。最近では乗馬から競馬になった。その知識なのか、選んだ馬の系図を見て、「親は東大に入ったが、最後の上級公務員試験では落ちたってクラスかな?だからこの子はいい血筋だ」みたいな訳の分からない事を云っていた。

ところがいざ騎乗の人になると、人が変ったかのようにキリットし始めた。とてもここ10年は乗っていないとは思えない程慣れていた。最初は軽い歩行から、徐々にスピードを上げてギャロップに入った。そのずんぐりとした体形は、いつの間にか背が真っ直ぐ伸びて、滑らかな上下運動を繰り返していた。正に普段お目に掛かれない勇姿であった。何やら「日本の馬は皆んな競馬の引退馬だから上下運動が要るが、海外の馬は普通の馬なので優しい」らしい。

乗馬で難しいのは鐙の捉え方だ。鐙に深く靴を突っ込むと落ちた時に絡んでしまう、だからつま先を掛けるように浅く捉えるのが基本だ。しかし上下運動のバランスが悪いと、その浅い鐙が抜けてしまう。もう一つは綱の長さだ。短すぎると直ぐに引いて馬は止まるし、長いと止まらない。誰も居ない真っ直ぐな道で思い切ってムチを入れると、もの凄いスピードで走り出す。流石元競馬のサラブレッドだけある。1時間も乗ると、馬もハーハーと汗ビッショリになる。その一体感が何ともいい。

Tuesday, 22 August 2017

池上線の焼き鳥屋


先日、旧友のH君のお通夜に行った。H君とは卒業後してからご無沙汰していたが、数年前に一度東京駅の地下で飲んだことがあった。昔から九州男児特有の豪快さが売りの彼だったが、歳を取ってもその親分肌は変わらずであった。噂では落第して卒業が遅れたとか聞いていたが、その時貰った名刺を見ると大企業の専務取締役だったりして驚いた。

葬儀は五反田から走る池上線の沿線駅だった。本人の住まいの近くだと言うが、東京広しとは言え、殆ど行った事のない場所だった。初めて乗る池上線は都電を大きくしたような親近感があったし、何より狭い住宅街を走る風景が良かった。帰り道、亡くなったH君はこんな町に住んでいたのか!と故人の足跡と重ね合わせたりした。

後日、テレビのぶらり散歩ではないが、改めて池上線に乗ってみた。夕方になったので、適当に降りた駅の居酒屋で一杯飲んで帰ることにした。裏路地に入ると、白い提灯が遠くから呼んでいる店があった。それは焼き鳥屋で、入ると整然とした棚に小皿とコップが並び、カウンターの前では主人が丸裸の鳥を捌いていた。鳥は新鮮でニンニクの効いた大根おろしとのアクセントがとても良かった。久しぶりに下町の風情に浸ったのであったが、こんな事ならもう一度彼と飲めばよかった・・・。

Sunday, 20 August 2017

百万本のバラ


産経新聞のコラムに、加藤登紀子の歌「百万本のバラ」はラトビアが原産地だと書いてあった。調べてみると確かにそうで、早速Youtubeで聞いてみた。それはうら悲しいメロディーで、何やらロシアに占領されたラトビア人の心を歌にしたらしい。https://www.youtube.com/watch?v=vCwT8XZrgQ0
産経ロンドン支局の記者は、ラトビアを訪れた際に知ったというが、こういう記事が一番面白い。

ラトビアと言えば、今ではバルト三国の中でも特に無国籍者が多い国である。無国籍者は所謂パスポートを持たない人達である。ソ連の崩壊後、長年に渡り不法占拠していたロシア人は国を出て行かねばならなかった。ただ今更帰るに帰る場所もない人は残り、自動的に無国籍者になってしまった。それはラトビア国民の2割というから大変な数だ。その不安定な社会を反映してか、首都のリガは何か荒々しい感じがする。

ところでロシアを今の大国にしたのは、18世紀の皇帝ピュートル1世である。自らロンドンを視察し西洋化に努め、当時は何もなかったバルト海に近い土地にサンクト・ペテルブルグを作った。彼が死んでから、妻のエカチェリーナが皇帝を継いだ。彼女の生い立ちは波乱に富んでいて、今のラトビア(当時はリヴォニア)農家(一説には墓堀人)で育てられ、ロシアとスウェーデンの大北方戦争の時、そこを通ったロシア将校に拾われた。彼女はその後、将校の妾(お付)になっていたところをピュートル1世の目に留まり、秘密裏に結婚した経緯がある。昔、ラトビアからエストニアに向かう時、国境近くでその村を通ったことがあったが、今でも何もない寂しいところだった。この歌を聴きながら、そんなことを思い出した。

Wednesday, 16 August 2017

ジョコビッチの誕生日

テニスの世界チャンピオン、ノバク・ジョコビッチが最近戦りつを離脱している。サイボーグのような肉体もガタが来たのだろうか?突然の故障に、長年続いたトップの地殻変動を感じる。一説には宗教だという噂も聞く。我らのアイドル錦織選手も、宗教家の女性との関係が週刊誌ネタになっている。敵はコート上だけでなく、意外な処にいるようだ。

ところでそのジョコビッチだが、誕生日は5月22日である。どうして覚えているかというと、その時期は毎年ローラン・ギャロスと重なるからだ。スターの彼はよくそのお祝いをロシア大使館で祝賀してもらっていた。彼の国セルビアとロシアはそんなに深い関係なのだろうか?今回の旅で気になったのは正教である。東ローマ教会がビザンティンになり、最後はロシアに受け継がれる中で、セルビア王国の成立とシンクロいていたようだ。ただそれは14世紀からの話で、今に脈々と生きているから驚きだ。

ただ誰もがそうではない。モンテネグロ出身のラオニッチ選手はカナダに移民した。副首相まで登り詰めた父親が、国を捨てたのはセルビア系だったからだろうか? また随分昔の話になるが、ステファン・グラフのライバルで暴漢に背中を刺されたモニカ・セレシュがいた。彼女はやはりセルビア人だったがアメリカに移った。テニスの人達が大昔の歴史を背負っていると思うと、また違う顔が見えて来る。

Tuesday, 15 August 2017

ドリナの橋


旧ユーゴのノーベル賞作家、アンドリッチの名作「ドリナの橋」を読み返してみた。バルカンの旅で訪れたボツニア・ヘルツゴビナの町、ヴィッシェグラード(Višegrad)を舞台にした大河小説である。以前買った本が要約だったことが分かり、改めて全編を図書館から取り寄せた。物語はオスマン帝国時代から第一次大戦に至る町の様子を描いたものだ。人々は時代と共に流れ往く景色のように過ぎ去って行くが、ドリナ川に架かる橋だけはじっと変わらないで見つめている、いう設定である。それは昔読んだバージニア・バートンの絵本「小さいおうち(原題The Little House)」の設定に良く似ていた。

小説は今に通じる迫力がある。時は16世紀、当時はオスマン帝国の領地であった。5年掛けて作ったトルコの橋を壊そうと、キリスト教徒(セルビア人?)が妨害し捕まる。処刑は人間を串刺しにする。串刺しは15世紀にドラキュラ伯爵のモデルになったルーマニアのヴァラド王が有名だ。攻めてくるオスマン軍に対し、トルコ兵2万人を串刺しにし林立させ恐怖を煽った。大事なのは、当時から罪人が死なないように急所を外して刺すことだった。小説にはその生々しいテクニックをさり気なく解説している。更に興味深かったのは、その仕事を任されたのがジプシーだった事だ。

それから、イエニチェリ軍団と言う徴兵制も出て来る。オスマントルコを強くしたのは、敵だった特にセルビア人の子供を強制徴兵したことだった。物語でも10歳になる少年を親から取り上げ連れて行く件がある。子供を追い掛ける母親の叫びが、タダでさえも貧しいバルカンの悲哀と相まっている。またオスマン帝国が衰退する街にはオートリア軍がやってくる。市民は彼らが国境を測量するのを見て、初めてオスマントルコが衰えたことを知るのであった。イスラムの農民が徴兵される時、皮のタスキを擁した軍服は十字を表すので抵抗があったという。その他結婚を望まない娘が川に身を投げる話や、最後はサラエボで起きたオーストリア皇太子殺害がセルビア人によって起こされたことに対し、町のセルビア人が追い立てられる様子も紹介されている。そう言えば、この町から直ぐの処にセルビア国境が走っていた。

読んでいて、意外とオスマンの時代って平和だったと思った。それは時間の流れがゆったり時代だったからかも知れないが、何より他民族が共存していた。

Sunday, 13 August 2017

スパゲティボンゴレ

「バルカンに行ってきました」と云うと、必ず「美味しいものはありました?」と聞かれる。それを聞かれると困ってしまう。旅行ガイドブックでは、現地の食べ物が紹介されているから猶更である。ビールには凝るが、食べる物は所詮空腹が満たされればいい。

実は旅の食事の殆どはスパゲティである。それもスパゲティボンゴレである。ひき肉が入ったパスタでどこに行ってもあるし、お腹が空いている時に直ぐに出て来る。特に言葉が通じない国では猶更だ。食を追及すると、ガイドブックに頼る余りあれこれ言っている内に時間ばかりが経ってしまう。ウェイターには愛想を付かされ、最後は思ってもない皿が出て来るトラブルが待っている。

多い時には昼夜とボンゴレを頼む。「そんなに食べていて飽きないですか?」と言われるがそんな事はない。ボンゴレは万国共通で、レストランや国によって微妙に味が違う。バルカンの特徴は量が多く、たっぷり入ったオリーブ油はラーメンのようである。今まで一番美味しかったスパゲティボンゴレはどこか?、それは昨年行ったマケドニアの首都スコピエである。マケドニアといえば旧ユーゴの中でも最も遅れた国で、街に立ち並ぶ旧ロシア時代の巨大な銅像は、ペンキで放置された異常な都市である。ところが、集英社新書の「終わらぬ民族浄化、セルビア・モンテネグロ」を読んでいたら、著者の木村さんも「スコピエで食べた中華は最高だった!」と書いてあった。たまたまかも知れないが、最果ての国と思われる場所で、期しくも同じ思いをしたかと共感を持った。そのレストランの名前は忘れたが、マザーテレサの生家の前にあった。

Friday, 11 August 2017

バルカン旅行を振り返り

「バルカン半島を旅します」と云うと、必ず「大丈夫なの?危なくないの?」と聞かれる。一般のイメージは、「火薬庫」から来る暴力、残虐性、後進性だろう。ただ普通に廻っていれば、平和で落ち着いた人々で、とてもそんな事が起きたなんて想像出来ない。特にジェノサイトに象徴される民族浄化の凄さなんて、中々旅行者では分からない世界だった。
                            ただ民族の殺戮は、移住と関係している事が分かって来た。それはイスラエルとパレスチナみたいなもので、本来住んでいた地域に、ある時大挙して人々がやって来ることが発端になっていた。土地を取られた民族と新たにやって来た民族が、山一つ、谷一つ隔てて住んでいれば、いつか紛争が起きるのは自然だった。もう一つは移住した方も被害者ということだ。今の難民問題もそうかも知れないが、バルカン諸国の場合、長年大国の領土拡張に振り回されてきた。ある時はオスマンだったりハプスブルグ、最近ではロシアと主人が代わった。主人が代わると、傀儡を司るその国の支配者も入れ替わる。それが同じ民族の報復を生み、移民を生む事に繋がった。それは自動車の玉突き事故のようなもので、人々の意識は「誰かにぶつけられ誰かにぶつかった」に近い。



最近出た中公新書「バルカン」はこうした理解を深めてくれた。行った事のない人に取ってはつまらない本だと思うが、半島全体の歴史を俯瞰していて良かった。そもそも昔はオスマン帝国の一部だったのに、それを国別に捉える識者がいるから分かり難いのだ。映画「ネルトバの戦い」のDVDも買ってみた。戦争映画に付き物のある華やかさはないが、旅の行間を埋めてくれた。

Wednesday, 9 August 2017

クロアチアのNZ移民

スロヴェニアの田舎からハンガリーのブタペストまで約500Kmであった。ちょっと行って帰るのは遠過ぎたが、国境までならその半分だったので行ってみた。名もない小さな町で飲んだStaropramenというハンガリービールは美味かった。主人が鹿の赤ワイン煮を勧めてくれたので一緒に食べた。翌日はそこから一時間走り、クロアチアのVaraždinという町でゆっくりした。石畳みとプロテスタントの教会が残る中世の町で、スカートを膨らませる針金の産地だそうだ。

そして迎えた出発の朝、ホテルをチェックアウトし車を出した。ここまで無事故だったことを感謝し、あとちょっとと思った瞬間、ドスンとぶつかる音がした。振り返ると、駐車場からバックで出てきた車に追突された。幸いケガはなかったが、最後の最後で不快な気分になってしまい、運が悪かったなと自身を慰めた。その帰りの機内で一昔前の「時を駆ける少女」のアニメ映画を見た。映画は時をタイムリープする能力を持った少女の話だった。思えばホテルをチェックアウトした後に、冷蔵庫の中の忘れ物に気づき一度ホテルに戻った。もしもあの時引き返さなければ事故もなかったのに!・・・と、もう一度出来ればタイムリープをしたくなった。

帰りの飛行機はドバイ経由だった。隣にいた年配の女性と話しているとNZに帰るという。聞くとクロアチア人で、90年代のユーゴ紛争の時に国を離れ移民としてNZに渡ったという。その時は「へーそうですか!大変だったですね」で終わった。ただ帰国して書物を漁るうちに、その女性はクロアチアに住んでいたセルビア人だと分かった。旅を契機に、段々人々のルーツが分かり始めた。

Tuesday, 8 August 2017

スロヴェニアのゴルフ


コバリドを経つと、旅は消化モードになってしまった。折角なので、スロヴェニアの景勝地ブレッド湖(Bled)に寄ってみることにした。一帯のトリグラウ国立公園は、イタリアのドロミテやオーストリアのザルツカンマーグードなどと比べると小振りな感じがした。それでも2500mの山越えルートは結構厳しく、40か所以上のカーブを経てやっと峠に辿り着いた。そのダイナミックな眺望はやはりヨーロッパだった。



ブレッド湖も写真で見た通りの古城とエメラルドの水がマッチする美しい処だった。ただ観光客が多いので嫌になってしまったので、そそくさと町を出た。するとゴルフの看板が目に入った。行くとBled Golf Clubという良く整理されたグリーンが拡がっていた。運動不足にはちょうどいいと思い、早速受付に「旅行者ですが廻れます?」と聞いてみた。すると「いつでもスタート出来ますよ!」と言われたので、ハーフを廻ることにした。全部で80ユーロ(約1万円)は少し高かったが、クラブセットとカートを借りた。夏の観光地だというのに、前後誰も廻っている人はいない。コースも荒れてあまりいいゴルフ場とは思えなかったが、聞くと国内で最高のクラブだという。調べてみると、スロヴェニアには全部で16コースあった。これはルーマニア(9)、ブルガリア(9)、クロアチア(6)、セルビア(2)と比べると圧倒的に多い。ゴルフは経済水準のバロメーターと言われるが、正しくそれを証明していた。

スロヴェニアは人口2百万人の小さな国である。ただ一人当たりGDP2万ドルを超え、隣国クロアチアの2倍、モンテネグロの3倍以上と豊かである。EU加盟もバルカン諸国の中でも一番早かった。勿論通貨はユーロである。他の旧ユーゴ諸国と比べて秀でたのは、オーストリアやイタリアの西側と国境を接する地理的な事情から来たものだと分かった。(戦争博物館の解説では)ユーゴ紛争の時にアメリカから多大な支援を受け、それが独立の後押しになったという。ガソリンスタンドで民謡の入ったCDを買った。車中で聴くと、ルーマニアなどのアラブっぽさは全くないチロルのメロディーに似ていた。

Monday, 7 August 2017

コバリドの塹壕跡


旅の11日目、今回の旅の目的地、スロべニアのコバリド(Kobarid)を訪れた。コバリドはスロヴェニアとイタリアの国境に位置する小さな村である。周囲は山に囲まれ長閑な処であるが、第一次大戦で5万人以上の死傷者を出した激戦地だった。あのヘミングウェーの小説「武器よさらば」の舞台であり、カポレットの戦い(Battle of Caporetto)として有名である。


着いてから早速博物館を訪れ、写真や解説ビデオで知識を仕入れた。それから案内所に行くと、係りの人が「山の途中にイタリア軍の塹壕が残っています、1時間半程の行程ですよ!」と教えてくれた。早速登ってみると、なだらかな道とはいえ夏なのでかなりきつい。暫くすると道の両脇が人工的に固められた箇所が出て来た。屋根をすれば確かにそこが塹壕であった。当時は30㎏の荷物を背負い、真冬に何日もここで過ごしたことを思い浮かべた。



翌日、再度博物館に行ってもう一度ビデオを見せてもらった。英語ということもあり、一度では中々分かり難かったが、2度見るとよく理解出来た。最初は中立だったイタリアが突如国境を越え侵攻、それを旧ハプスブルグ家のオーストリア・ハンガリー連合にドイツが加わり反撃した。その結果、ドイツ連合が山岳地帯で使った毒ガスの威力で、イタリア軍を撃退する結末であった。



「武器よさらば」の主人公フレドリックは、イタリア軍に属したアメリカ人で、恋した看護婦を追いかけて脱走する。イタリア軍は当時からこうした兵士が多かったようだ。フレドリックは知り合いが手配したボートで湖を渡りスイスに逃げる。ただコバリドからスイスまでかなり距離がある。今回そのルートも辿りたかったが、それは分からなかったので、この秋の夜長に取って置くことにした。

コバリドの山を一人歩いていると、100年前の兵士の息遣いが聞こえてくるようだった。それはノルマンジーとかワーテルローと同じで本当にそうだった。コバリドは昔イタリア領であった。泊まった宿はピザの専門店で沢山の客で混んでいた。とても美味かったのは、主人がイタリア人の末裔なのか?そんな事を考えた。

Sunday, 6 August 2017

チリッチの母国で

アドリア海の最後は、クロアチアのプーラ(Pula)という古代ローマのコロシアムが残る町に泊まった。ホテルの受付嬢が、「昔XXの皇太子が泊ったの」と言うがそれが誰だか分からなかった。100年以上前の建物だったので、高い天井とガランとした廊下は人気がなく夜は怖かった。翌朝そのコロシアムを見に行った。入口で足元を横切った大きなトカゲがいた。まるで当時から住んでいるようだった。プーラからローマまで陸で800Km、ベニスまでは船で140㎞、正にそこはローマ帝国の一部だった。


そのプーラに行く途中、リエカ(Rijeka)という港町で休憩した。その日は、ウィンブルドン男子決勝の日で、フェデラーとチリッチのカードだったので、どこかで見たかった。チリッチは地元クロアチア出身なので、さぞかし盛り上がっているのだろう。パブに入ったが2~3人の客とウェイターもあまり関心はないようだった。内戦の続いた国ではテニスどころではないのだろうか?そんな事を考えながら、独りで記念すべき一戦をクロアチアで見れた幸せに浸った。

プーラからスロヴェ二アに入り、まずUNESCOの世界遺産になっているシャコッアン洞窟を見学した。日本からのツアーになっているのは、もう一つのポストーニャ洞窟の方である。何故、世界遺産の方に行かないのか?その理由が行ってみて分かった。ポストーニャ洞窟はトロッコ電車で周るツアーだが、シャコッアンは全コース2時間かけて歩くハードなツアーだった。寒く長い洞窟も沙流ことながら、最後は山頂に戻る山登りが結構きつかった。体力のない人だったら、途中でくたばってしまうだろう。その洞窟だが、山口の秋芳洞と比べると、坑内の広さは桁違いだった。凄かったのは発見当時のルートが残っていたことで、真っ暗の中、命がけで開拓した様子が伝わってきた。

その日は近くの民宿に泊まった。小さな宿にドイツ人やインド人が泊まっていた。お腹は左程空いていなかったので、スープとチーズ、それに赤ワインで取ることにした。スープは芋を潰した中に肉が入っていて非常に美味かった。ドイツ人夫妻と、日独の定年後の話で盛り上がった。

Friday, 4 August 2017

モスタルの橋

海岸線から又内陸に入り、ボツニア・セルツゴビナのモスタル(Mostar)を往復した。ユーゴ内戦の象徴とされる橋は、一度壊されたが今では復元され、世界遺産になって多くの観光客が訪れていた。モスタルの町は普通の市街だったが、まだ観光スポットが整理されていないのか、何人か町の人に聞きつつやっと辿り着いた。

昔に写真で見たアーチ式の急勾配の橋は健在で、床に滑落した昔の素材を使っているようで新しくも古かった。眼下を流れるネルトバ川のエメラルド色と、白い橋のコントラストがそれは美しかった。今では夏に橋から川に飛び込みの大会を行っているという。外の暑さと水の冷たさの格差が激しいとガイドが云っていたのを聞いた。そう言えば日本のテレビで昔放映していた事があった。



橋の袂のレストランでは、挽肉の棒状にして炙ったチェバプチチを看板メニューにした。折角なので頼んでみたが、一皿10ピースだと言うので半分にしてもらった。食べてみると塩コショウが効いていて玉ねぎとの相性も良く美味かった。昨年ブルガリアの田舎でも食べた事を思い出した。近くで買った内戦の写真集を見ながら、たった20年前の悲惨な時に思いを馳せたりした。

Thursday, 3 August 2017

素晴らしいクロアチアワイン

雑踏から逃れ、それからは名もない小さな村を探して泊まることにした。昼は海岸線を走り、3時頃には海辺に近い宿を探して海に飛び込む。アドリア海の水はエメラルド色をしていて透明度が高い。日本から持って行った水中メガネで覗くと、深さ10m位はよく見えた。魚も沢山泳いでいた。ただ暫く浸っていると段々体の芯が冷えてくるので長居は禁物だ。涼を取れたところで、クロアチアの地ビール”Karlovačko”を飲む。ちょっとスーパードライに比べれば薄味だが、乾燥した気候に合っていた。名もないレストランでサバのムニエルを頼んだことがあった。とても新鮮でホウレンソウとの相性が抜群だった。思い切って頼んだボツニア・ヘルツゴビナの赤ワイン(それでも1本2000円程度)も良かった。日本でもチリや南アなどの新興国ワインが安価で人気があるが、これからはバルカンワインの予感がした。独立から20年ほど経って農地が整備され、新たなワイン技術を導入している姿が伝わってきた。昔はモルドバやモンテネグロの旧ワインは日本の葡萄ジュースのようだったが、確実に品質が向上している。

クロアチアの海岸線は、切り立ったディナル・アルプスがそのまま海に突き刺さっている。その景色は今まで見た事もないダイナミズムがあり素晴らしかった。海岸線はカーブが多いので運転に気が抜けないが、奥まった湾から突然村落が目に入ってくる。それも赤い屋根で海の青さとのコントラストが美しい。岩山は北に向かうにつれ低くなるが、イタリア国境に近づくとまた険しくなった。北の方では経済が豊かなので高速道路が走っていたが、トンネルばかりでやはり旅は海岸線を走る南の方が楽しい。

今回「モンテネグロに行きます」と言うと、「ああ007のカジノ・ロワイヤルの場所ね!」と答える人が多かった。確かに映画の字幕にはそう書いてあった。ところが、実は撮影はチェコだったようだ。Xミッション(原題:Point Break)の冒険映画では、ウィングスーツ・フライングの舞台にスイスを使った。ただどちらもクロアチアを選んだ方がもっと迫力の映像が撮れたのに・・・。

Wednesday, 2 August 2017

ドゥブロヴニクの民宿

コトルからアドリア海に沿った旅が始まった。次の目的地は今回のハイライトであるクロアチアのドゥブロヴニク(Dubrovnik)である。ところが途中で道を間違えて、また山沿いのボツニア・ヘルツゴビナの町に入ってしまった。この辺りは3つの国境線が交わっているので、うっかりしていると直ぐ越境してしまう。そこから南下してクロアチアに入ろうとすると、国境で車が長い列を作っていた。どうやら、EU(のクロアチア)に入る鬼門のようで、一台10分ほどを掛けて念入りに調べていた。結局35度の炎天下、トロトロと3時間程待たされたのには参った。クーラーを掛けるとバッテリーが上がるので、只管我慢すると熱中症ぽくなってしまった。前の車の人が氷水をくれて、「これで顔を洗え!」と冷を分けてくれたり、後ろの人が、「日本人の方ですか?」と流暢な日本語で話しかけてきた。聞くと奥さんが日本人とかで、皆大人しく待っていた。

そのドゥブロヴニクであるが、ガイドブックで見た通りの赤レンガの屋根が犇めく美しい都市だった。紛争で壊れた建物は修復され、見事な中世の街並みが復元されていた。ただバルカン半島最大の観光地ということもあって、多くの観光客で溢れかえっていた。耳に入ってくる中国語を聞きながらでは、あまり旅の気分にもなれず、城内を一周した処で退散することにした。

その日は市内の民宿に泊まった。年配の爺さんが一人でやっていた一軒家で、坂道に面した薄暗い部屋は、車の騒音で眠れなかった。翌朝は逃げ出すように町を出た。

Tuesday, 1 August 2017

コトルの城壁

コトル(Kotor)はベネチア共和国時代に栄えた港町である。昔読んだ塩野七生さんの「海の都の物語」に出て来た気がする。深く入り込んだ湾の奥が町で、その背後には切り立った岩山が聳えている。初めて日本人の観光客に出会った。これなら背後から攻められることはないだろうと思うが、岩肌には周囲4.5Kmの城壁と海面1500mに聳えた完璧な要塞であった。折角のなのでゆっくり2泊することにし、旧市街近くに宿を取った。


翌日はそのアドリア海で泳いだ。バカンス客は海と住居の間の狭い道に車を止め、僅かばかりの岸辺に陣取って一日を過ごしている。フランスのコート・ダジュールやベアリッツと違い華やかさは全くない。そこは旧社会主義のお国柄だろうか、勿論トップレスなどは皆無である。気が付くとあまり海に入っている人は居ない。恐る恐る入ってみると、2~3m進むと背が立たなくなってしまう深さだった。水はとても冷たく、10分も浸かっていると体の芯が凍ってしまう。ただ外に出るとこれまた強い日差しで暑く、その格差がアドリア海と思った。2回ほど入るとさっぱりしたので、今度は城壁登りにチャレンジしてみた。

城壁のパンフレットには、安全ルート、危険が増す区域、ハイリスク区域の3つが色分けされており、海からほぼ垂直に連なる山道は険しかった。登ること約1時間、着いた先の教会廃墟には水を売るおじさんと犬が寝ていた。富士山ではないが、一緒に登頂した登山者とハグで分かち合い記念撮影した。聞くとトルコ、ドイツ、台湾から来た人だという。トルコと言えばその昔はここもオスマン帝国の一部だったから、里帰りの気分なのだろうか。その日はモンテネグロワインと地ビール、ベーコンを詰めた地ダコ(あまり美味くなかった)で夕食を取った。既に1000Km程を走ったので疲れた。