Monday, 31 July 2017

モンテネグロの渓谷

Višegradからは、一挙に南下してモンテネグロのコトル(Kotor)を目指した。いよいよアドリア海に出るかと思うと、少し心も晴れてきた。ルートは昨日の反省もあり最短距離を選んだ。ボスニア・ヘルツゴビナからセルビア国境を抜けたが、山中の検問所は少し気味の悪かった。村の人々もイスラム風で、女性はヒジャブを被っていた。

人の違いも少しずつ区別出来るようになってきた。ボツニア人は、男だと丸刈りで体格も良く丸っこい体型だ。それに比べ、モンテネグロの人は顔が異常に小さく、体がやけに大きく見える。どこかで見たと思ったが、映画「アバタ」の動物人間に似ていた。昔スコットランドを旅していた時、とあるお城で女性2人組がいた。その後ろ姿は今まで見た事もない9~10等身で人間離れしていた。思わず「どちらの方ですか?」と聞きたくなったが、今回モンテネグロに来てその謎が解けた。顔は、男であれば俳優のジャン・レノに似ている。髭を蓄え、大きな目に瞼が半分程掛かっているので眠たく見える。

途中、国立公園になっている渓谷を抜けたが、高低差100m以上はあっただろうか、岩山と眼下に流れるタラ川のエメラルド色とのコントラストが見事だった。細い山道は対面通行で、一歩間違えば奈落の底である。そんな中、大きなトラックが後ろから追い越しを掛けヒアッとするシーンが何度かあり怖かった。夕方4時頃だったかやっとコトルに着いた。山越えの登りが終わり、峠を越えると湾が見えてきた。正にそれは、アラビアのロレンスが長い砂漠を抜けてアカバに出たシーンと重なった




Thursday, 27 July 2017

ジェノサイトとVišegradの橋

サラエボから、同じボツニア・ヘルツゴビナのVišegradという世界遺産の町に向かった。市内を出るとき、ヒッチハイクの若い男女が居たので乗せた。聞くとフランス人の学生で、リール大学で社会学を専攻しているという。ヒッチハイカーを乗せるのは少々リスキーだ。昔、オーストリアでコックの見習いを乗せた処、途中で言葉が通じないのでトラブルになった事があった。以来、身なりのいい旅行者を選んでいる。車中、彼らは「セルビア人のジェノサイトが何故同じ人間として起きたのか?確かめに来た」と言っていた。テント一つで、これからベオグラードに行くと言うので途中で下した。

そのVišegradに向かう途中、Srebrenicaという村に寄った。ここは数あるジェノサイトの中でも最大の犠牲者が出た場所だ。走る事3時間、暑い中でやっと着くと、そこには最近出来たお墓があり、多くの人々がお参りに来ていた。1995年にセルビア軍がボツニア人8000人以上を殺害し、その数は第二次大戦のユダヤ人以来と云われている。そこからVišegradに行くには、セルビア国境を通るのが近道だ。しかし地元に人に聞くと、誰もが「遠回りしてもそこを通るな」と云う。本当の処は分からなかったが、結局倍近い距離を迂回して夕方Višegradに着いた。

Višegradにはドリーナ川に架かる立派な橋があった。早速橋の袂のホテルに入り、乾いた喉にビールを流し込んだ。知らなかったが、橋を有名にしたのが、ノーベル賞作家イボ・アンドリッチの「ドリーナの橋」だというので、早速取り寄せ読んでみた。美しい風景とは裏腹に、罪人を串刺しの刑にするリアルな描写から始まる小説だった。そう言えば、これも後から知ったが、このVišegradの町も、3000人のジェノサイトがあったという。先のSrebrenicaに先立つ事3年、そんな過去が信じられない程長閑だし、人々も落ち付いていたから未だに信じられない。それにしても、切り立った山間にエメラルドの湖が横たわる秘境であった。

Wednesday, 26 July 2017

サラエボ銃声の現場

旅はそのサラエボから始まった。日本から乗り継ぎを経て20時間、クロアチアの首都ザグレブで予約していたレンタカーを借りた。今回はオペルのアストラだった。早速近くのガソリンスタンドに寄り地図を買った。ナビより、言葉の分からない地域ではこの地図が一番役に立つ。それを頼りに走ること400㎞、ボツニア・セルツゴビナの国境を越え、夕方にサラエボに着いた。

サラエボは盆地に位置する大きな町だった。俗に言う「スナイパー通り」を只管センターに向かい、探し歩く事2軒目の宿が空いていたので泊まることにした。主人はトルコ人だった。車を置いて街に出ると、殆どがイスラム風の店だった。翌朝、早速サラエボ事件の現場に行ってみた。それはスパイナー通りから路地に入った一角だった。皇太子の馬車が狙撃された現場に立つと、数年前に訪れたダラスのJFK暗殺ポイントに立った事を思い出した。どちらも車の速度を落とした処を狙われたようだ。変哲の無い通りだが、歴史のターニングポイントに暫し佇み、犯人の心境に思いに馳せた。

サラエボの市内は新旧の建物が混在していた。20数年前のサラエボ包囲で多くの建物が破壊されたからだ。それも4年も続いたというから驚きだった。冬季オリンピックの後だが、良く持ち応えた。市民の命を繋いだトンネルが空港近くに残っているというので、やっと探し当てて訪れてみた。今では数メートルしか残していない観光地だったが、改めて当時の緊張感が伝わってきた。

市内には正教の新たな教会も建っていた。正教とは攻撃したセルビア人の宗教だが、市内のセルビア人も多く被害に遭ったかというから良く分からない。その教会のキリスト像は三本の指を翳していて、何か変な気がした。戦争博物館にも行ったが、こちらはパネルだけで、何も展示されていなかった。まだそれどころではないのかも知れない。

Tuesday, 25 July 2017

続バルカン紀行


今年の夏も、昨年に続きバルカン半島を旅した。今回は半島の西側、つまりアドリア海に沿ったクロアチア、モンテネグロなどの諸国である。只管走ること3200Km、昨年と合わせると6500Kmを踏破したから、これで半島を殆ど制覇した事になり正直ホッとしている。




バルカン半島など一昔前なら旅行など考えられなかった地域だ。昔から「ヨーロッパの火薬庫」と云われ、充満したガスに火を点ければいつでも爆破する危険なイメージがあった。その象徴が第一次大戦の引き金になったサラエボ事件だった。サラエボを訪れたオーストリア皇太子がセルビア人に殺害されたのを切掛けに、国々が二分され相交えた。それは戦後に国として成立したユーゴスラビアの形に引き継がれた。ユーゴスラビアとは南スラブの意味である。キリスト教徒とイスラム教徒が合い交える独特の地域に、50百万人近い人々が軒を重ねるように暮らしていた。ただ、今まで無かった国境線が引かれた辺りから全てが始まり、おかしくなった気がする。



これは外から見ていると中々分かり難い世界である。日本人のみならず、ヒッチハイクで乗せたフランス人学生も同じようなことを言っていた。唯一見えて来たのは、あれから20年経ち人々の生活が落ち着きを取り戻し、旅行者が安心して回れる環境になった事だ。食べ物は安くて美味しいし、豊かな自然と東西の歴史が融合する手付かずの遺跡がそこに残っている。美しいエメラルドの海で皆んな裸で泳いでいる風景を見ていると、過酷な紛争があったなんて本当に信じられない。

と言う事で、これから何回かに渡り、「続バルカン紀行」と称し紹介して行きたい。

Thursday, 6 July 2017

ケーディスの日合わせ

政府の憲法改正が次の目玉になってきた。安倍さんの思いとは裏腹に、世間は冷めている。そんな矢先に、猪瀬(直樹)さんの本を読んで改めて複雑な思いになってしまった。

それは「東条英機の処刑の日」という日合わせの本だった。憲法が施行された昭和22年5月3日は、1年前の同じ日に極東裁判が開廷された日であり、それに先立つ4月29日の昭和天皇の誕生日には、前年に戦犯の起訴が行われた。そしてA級戦犯が処刑されたのは昭和23年12月23日であったが、それは明仁皇太子の15歳の誕生日だったという。この戦後処理と天皇を結びつけたのが、GHQのケーディス大佐(Charles Kades)だった。

彼は弁護士だったが、当時今の憲法のドラフトを1週間で原案を作った人物として有名だ。そして制定までたったの3カ月、それから今に至っている。ケーディスは翌年のやはり5月3日に退職したから日にちに拘りがあったようだ。そんな事もあってか、日本の政治家だったら誰もが作り直してみたい気になるのは当然だろう。ただ実際は北朝鮮のミサイルが本土に落ちない限りは無理だ。それだけ人々は今の生活に満足している。そんな憲法って一体何のか?と、暫し考えてしまった。

Monday, 3 July 2017

結婚しない女性

先日、同世代が集まった時、酒井和歌子の話が出た。若い頃は清純なアイドルだったが、未だに結婚してないという。誰かが、「親が手放しくなかったそうだよ」という。本当かどうか分からないが、この手のタイプは大体は親が原因か、それとも若い頃の男性体験に起因しているケースが多い。後者の代表的なのは(詳しい事は知らないが)中島みゆきだったり、ひょっとして小池百合子もそうかも知れない。

そんな事を話していると、ふとMさんの事を思い出した。Mさんは、とある仕事先で一緒だった女性で、キリッとした目つきと利発な性格、育ちや学歴も備えていた。仮に名前を宮部さん(仮名)としておこう。同僚だったIさんはその宮部さんにすっかり惚れ込んでしまい、日に何度かMさんの話をするが、あまり相手にされずそれは不憫だった。そんなある時、仕事で長谷川さんという人がやってきた。Iさんはその長谷川さんを長谷部さんと呼んでいた。気が付かないのは本人だけで、「もうこの人すっかり狂っている!?」と思った。

Mさんはその後も独身で、今では立派な要職につく女性キャリアだ。どうして結婚しないのか、どうしてそのMさんを思い出したのか、どちらの理由も謎だ。でもひょっとして若い頃に何かあったんじゃないのかな?、そんな事が最近ふと頭を過ぎるようになった。こればかりは直感だ。人の事、特に女性の気持ちは分かり難い。