Friday, 31 March 2017

毛沢東の主治医

今から20年以上前の本だが、毛沢東の主治医を務めた李志綏(Dr.Li Zhisui)の書いた「毛沢東の私生活(原題:The Private Life of Chairman MAO)」は中々面白い本である。一介の医師が登用され、身近に見ていた権力者の素顔が遺憾無く開陳されている。普段は外から見る毛沢東だが、一介の人として等身大で語られているから親近感もある。

話題も豊富で、北京に公開されている毛沢東は死後レプリカ用に作った蝋人形だったり、ルーマニアのチャウシスクから贈られたブランディー入りのチーズや、肥満の原因になった脂肪のある豚を最後まで食べ続けていたなど、今更だが当時を知る貴重な情報だ。よくこんな事の公開が許されてたのか、寧ろ心配になった。4人組の1人である江青の冷たい素顔もリアルであった。

独裁者と主治医と言えば、有名なのはヒットラーのモレル(Morell)医師である。結局は藪医者との評価で、劇薬を長年投薬した結果、ヒットラーが精神不安定になったのが世の定説である。幸い彼は難を逃れたが、朝鮮最後の李王朝に嫁いだ日本からの御妃を巡り、その主治医は謎の死を遂げたりした。歴史の裏方として医師の影響力は計り知れないが、一方で権威に近づいたリスクと裏腹なのが古今東西である。

Monday, 27 March 2017

稀勢の里の優勝

普段あまり相撲は見ないが、今週の優勝決定戦は別だった。前々日に左肩を痛め、正に土俵際の千秋楽で逆転して優勝した横綱の稀勢の里に、何故か感情移入してしまった。特に痛めていた左が使えず、右腕一本で戦った姿が良かった。日中その事を思い出し、自身でも信じられない目が潤んでしまう不覚を演じてしまった。

それは多分、あの「怪我に耐えて良く頑張った!感動した!!」の言葉が耳に残っていたからかも知れない。13年前にやはり怪我を忍て優勝した貴乃花に対し、小泉首相が向けた言葉である。早速今日、渦中の安倍首相もその事に触れていたから、つくづく国民的な関心事なのかと思った。

それにしても、「こんなことでどうして涙腺が緩むのだろう?」その疑問をある人に投げ掛けてみた。すると、「それは日本人のDNAだよ!」と言われた。つまり、誰でも主君に尽くし戦果を挙げて褒美を貰う際に使われていた口上だから、血の中に残っていたという訳だ。変な時に知らない祖先が登場するから困る。そんな舞台を作ってくれた稀勢の里のファイトだった。

Saturday, 25 March 2017

ロックフェラー財団

そのロックフェラー氏(David Rockefellar)がこの20日に亡くなっていた。その事をある人に教えてもらい知った。享年101歳だったようだ。勿論ご本人には会ったことはないが、最近不思議な縁を感じている。それは1970年代だったか、インドネシアで大丸やトヨタが襲撃され、ジャパンパッシングが起きた事があった。当時の首相は田中角栄であった。高度成長期の日系企業によるアジアでのオーバープレゼンスは、恰も南進と称して太平洋戦争のイメージと重なっていた。

反日を煽っていたのは現地の学生であった。だったらこちらも学生をと、政府財界でそんな機運が高まった。そんな矢先、ある人に誘われてインドネシアに行ってみないかという事になった。そうは言っても肝心のおカネがない。困っていると大学教授から財界の重鎮を経て、アジア財団を紹介された。アジア財団は当時白金に事務所を持っていた。言われるままに訪問すると、日本屋敷に絨毯が敷かれており、出て来たアメリカ人から「土足で上がっていい」と言われて驚いた記憶がある。そして紹介された名刺の威力で渡航費が支給されて、現地に飛び学生同士の親交を深めた。やがて彼らも日本に招待し、事件は沈静化した。

改めてそのアジア財団を見てみると、理事のリストにはスタンダード石油の面々が名を連ねている。かのロックフェラー家のルーツもスタンダード石油であったので、それはロックフェラー財団そのものであった。今から考えれば意外と利用されたのかも知れないが、貴重な体験をさせて貰ったのは事実だった。今回40年以上前のそれを思い出し、不思議な気持ちになった。

Thursday, 23 March 2017

ロックフェラー自伝

トランプ政権の政策の一つが保護主義と言われ、今週の財務相会議(G20)では反保護主義の文言が削除されたので株価は大きく下がった。その保護主義に対立するのはグローバリズムである。グローバリズムは多国籍企業に代表される企業活動も沙流事ながら、女性の人権や同性愛の容認など社会文化にも深く浸透している。こんな事を考えると、ISOの品質基準や、オリンピックのルール、人の移動からTPPまで何でも関係してきそうだ。

そんな矢先、そのグローバリズムの元祖と言われるロックフェラーの自伝「ロックフェラー回顧録(原題:David Rockefelllar Memoris)」を読んでみた。ユダヤ資本をバックに世界を暗躍する影の支配者、そんなイメージとは裏腹に、時代の寵児で世界を股に掛けて動いた姿が伝わってくる一冊だった。御多分に漏れず、彼の半生を費やしたチェース銀行では、ライバルだったジョージ・チャンピオンとの熾烈な戦いが開陳されていたが、正にそれは国内ファーストか国際化路線の対立であった。チャンピオンが今のトランプ、ロックフェラーが今のクリントンと置き換えると、凄く分かる気がした。

結果はロックフェラーが生き延びるが、シティーバンクが更に国際化では先を行っていたから、歴史の評価は左程出はなかったようだ。それにしても云わば影武者として会った人は多かった。ソ連のフルシチョフ、中国の周恩来、エジプトのサダドやキューバのカストロなど、当時の世界リーダーが勢揃いする。それを支えたのは、キッシンジャーであった。表向きはチェース銀行のためとは言っても、そのフットワークが歴史を変えたことも確かだ。何が本当で何がそうでないのか、益々分からなくなってきた。

Wednesday, 22 March 2017

平将門の祟り

大手町に久々に行くと、開発工事の真っ最中であった。昔の合同庁舎跡地には新しいビルが建ち、その横の残された一角で、三井物産、旧長銀、旧三井生命ビルなどがあった場所である。でも、あの平将門の首塚はどうかったのだろう?と心配になったが、無事に保護されているようだ。

平将門は平安時代の武将で、朝廷に逆らったために不運な処遇を得たという。永年に渡りその墓の祟りは尽きず、ビル工事に携わる人が怪我をしたり、オフィスで墓に背を向けて座ると出世出来ないとか噂は尽きなかった。その極め付けは90年代のバブルの終焉であった。大手町から日比谷に移転した某銀行は破綻した。当時から「霞が関に近づいてはいけない!」と言われていたジンクスが本当になったが、将門塚を後にしたことと関係なかったのだろうか。

将門も時の権力に歯向かった象徴である。ひょっとして、その教訓を未来永劫、記憶に留めようとしているのかも知れない?なんて事が頭を過った。大手町ビルの地下街だけは昔のまま残っている。そこの「玉の光」に寄り、変わりゆく街の姿と変わらぬ将門塚を重ねたのである。

Sunday, 19 March 2017

関ヶ原とワーテルロー

近江八幡から米原経由、名古屋に向かう途中に関ヶ原で下車した。今から600年前の古戦場に駅があること自体不思議だが、降りると案内所が一軒あるだけの田舎の駅だった。

その案内所で自転車を借りて古戦場を巡った。関ヶ原は1600年に徳川家康と石田三成の天下分け目の戦いである。その両軍の戦いの跡が良く記されていて中々面白かった。最初は西軍に分があったが、「小早川が寝返った辺りから東軍に勢いがついて徳川が勝った」という。戦いは一日で終わり、その後360年に渡る江戸時代に入って行った、正に天下分け目の一戦だった。

観光案内所で、関ヶ原は”世界三大古戦場の一つ”だと解説があった。あとの2つはゲティスバーグ(Gettysburg)とワーテルロー(Waterloo)らしい。誰の説だか知らないが、確かに現在に至る節目の戦いだったから、半分は成る程と思った。そのワーテルローには2度ほど訪れた。それこそ200年前と変わらぬ野原が拡がっており、目を閉じると兵士の怒号と馬の肥爪が聞こえて来るようなリアル感があった。関ヶ原は当時も2000人の農民が居て、今では工場も建っている村落だから、とてもそこまでの保存は出来ないのだろう。ただ静かな山並みに囲まれた山間は当時を彷彿とさせる面影が残っていて、想像を掻き立てるには十分だった。「修学旅行でここに来れば、嫌いな日本史が一気に身近になるのに!」、そう思えた場所だった。

Saturday, 18 March 2017

早春の近江八幡

以前に彦根を訪れた際に、タクシーの運転手が「観光客は、彦根城だけ見て近江八幡に行ってしまう!」と嘆いていたのが気になっていた。今回近くに行った序でに、その近江八幡を訪れてみた。

駅からバスで10分ほどの旧市街は、碁盤の目のような古い町並みが保存されていた。物資を運ぶ水路もあり、九州の柳川のようで良かった。市内の外れにロープウェイがあったので山に登ってみると、それは一層はっきり見えた。何と言っても、コンクリートの高いビルがなく、一つ一つの家々は昔の風景であった。近くに見えた小高い山は、信長の安土城があった安土山だと聞いて、歴史も身近になった。

山頂からは、琵琶湖とその向こうにまだ雪が残る山々の風景が美しかった。ここの城主だった豊臣秀次は、27歳の若さで自害させられた。その悲劇がその後の近江商人に繋がって行ったと言うから、何が幸いするか分からない。あと一か月遅かったら桜の季節だったが、まだ肌寒い早春の中山道であった。

Wednesday, 15 March 2017

独身のブラームス

今や日本人男子の4人に1人は一生結婚しないという。よくそれは経済的な原因と言われているが、果たしてそうなのだろうか?周りを見ていても決してそうとは思えない。家庭や健康問題など、そう簡単でない事情がある気がする。

そんな矢先、とある処で久々にブラームスを聴いた。ブラームスは昔から一番好きなクラシックのジャンルである。重厚と言われるが、途中でホッとする息抜きもあって、まるで人の一生を語っているような深さがある。1番、2番の交響曲やピアノ協奏曲、そしてお気に入りは何と言いってもバイオリン協奏曲である。特に第二楽章の甘いメロディーがとても好きである。

そのブラームスも生涯独身だった。色々調べて見たがホモでもないしマザコンでもない。母親は、父親の住んでいた家主の娘で17歳年上だった。それまで父は17歳年下の娘と付き合っていたり、母親が死んで父が再婚したのがやはり17歳年下だったというから、17という数字に何か印遠を感じる。そして当のブラームスだが、シューマンの妻クララに恋した話は有名だ。こちらは14歳年上だったが、結局二人はシューマンの死後距離を置くようになったようだ。それは何故かとても分かるような気がした。思えばベートーベンやショパンも独身だった。そんな作曲家の人生を重ねると、曲の味いも違ってくる。

Sunday, 12 March 2017

もう一つの京都

石山寺から電車に乗り、坂本から比叡山に登ろうかと思った。ところが生憎ケーブルカーが修理点検で運休していた。仕方がないので引き返し、近江神宮に寄った。鬱蒼とした境内を登ると立派な社が現れた。何やら第38代の天智天皇を祀っているというが、舗装されていない参道は趣がある。

それから京都市内に入り、平安神宮に行った。中学校の修学旅行以来だろうか、相変わらず観光のメッカになっている。改めて歴史を紐解くと、こちらは第50代の桓武天皇を祀っているという。桓武天皇は随分と昔の人なのに、境内は結構新しい建物だ。変だな?と思うと、何と目の前に聳える正殿は1895年に出来たという。

1895年と言えば前年から始まった日清戦争の最中である。今風に云えばテーマパークである建物だが、どうして当時こんなものを作ったのだろう?そして1940年になり、当初の桓武天皇に加え、明治天皇の父に当る孝明天皇も祀られている。先の近江神宮に天智天皇が祀られたのも1940年だった。正に太平洋戦争が始まった年で、偶然とは言えひょっとして戦意高揚と関係なかったのだろうか?と思えてしまう。そんな事を考えている内にお腹が空いて来たので、飲み屋の多い三条大橋に向かった。すると橋の袂に高山彦太郎の侍像が聳えていた。こんな人いたっけ?と思ったが、何やら朝廷に命を捧げた象徴的な人のようで、都に向かって土下座していた。観光客の多くは中国人と韓国人なのに、あまり気にしていないようだった。京都は結構危ない町だ。

Saturday, 11 March 2017

石山寺を訪ねて

早春の石山寺を訪れた。京都駅から電車を乗り継ぐこと30分、京阪の石山坂本線の終点である。小さな駅を降り、歩く事15分で山門に着く。朝早かったので、横に広がる琵琶湖では、ボートの練習をしていた。静かな湖畔をスイスイと漕ぐ風景は、京都のイメージと相まって優雅に映った。

殆ど開門と同時に入ったので、境内では朝の掃除していた。皆さん「おはようございます!」と挨拶してくれ気持ちが良かった。石山寺は平安から鎌倉時代に駈けての建築で、本堂は1096年、多宝塔は1194年という。立派な岩山の上から、今でもこうして読経が聞こえてくるから、改めて京の歴史って凄いと思った。

前夜、大津に泊まった。例によって地元の味を求めて散策すると、「直」という店が良さそうだったので暖簾を潜った。これが大正解で、「もろこ」という琵琶湖のワカサギ似の酢付け、「のれそれ」という白魚のポン酢和え、季節のホタルイカの天ぷらと地鶏のから揚げ等、丁寧に作る珍味に感動した。勿論地酒も多く揃っていた。浅芽生、波の音、松の司など、聞いた事もない銘柄がこんなに沢山あるのかと驚いた。こうした巡り合いがあるからこそ、遥々遠くまで足を延ばす価値があるというものだった。

Thursday, 9 March 2017

ブルとベアー

とある集まりの席上、誰かがブルとベアーの話をし始めた。どちらも相場言葉で、ブル(牛)は強気の上げ相場、ベアー(熊)は弱気の下げ相場を指す。Wさんが「その語源って知っていた?」と聞くと、多くの人は「牛は荒々しく、熊は大人しそう」のイメージと答えた。するとWさんは、「それは違います!”牛は攻撃するときに角で突き上げるが、熊は立ち上がって上から覆い被さる”のが正解です。その姿が由来です」と開陳してくれた。今更だが、意外と知らずに使っている言葉も多いものだと思った。

そう言えば、ボイコットもそうだ。ボイコットは拒否する時に使われるが、元々はイギリスのボイコット大尉(Charles Boycott)から来ている。イングランドからアイルランドに土地管理人として派遣されたボイコット氏だったが、あまりの強権に農民から抵抗があり、以来要求の拒否には彼の名前が使われている。またリンチ(Lynch)氏の場合もそうだ。ボイコット氏と同じアイルランドのコーズウェイに住んでいた。こちらは15世紀の判事だったが、法を破った息子を窓から吊るした。今でもその窓が生々しく残されており、リンチの諸説ある由来の一つになっている。

何気ない外来語に歴史が詰っているから、気が付いた時には点と点が面になる面白さがある。

Wednesday, 8 March 2017

タルツゥの新博物館


先日、写真家のKさんが「エストニアに斬新的な博物館が出来たらしいよ!」と教えてくれた。正直「そん馬鹿な!」と直ぐには信じることは出来なかった。何故なら、首都のタリンにある国立博物館ですら、「これが博物館?」と思える程、狭くて肝心の展示物がないからだ。長いソ連の傘下にあって、お宝は全て持って行かれたからである。飾ってあるのは、民芸品に毛が生えたような稚拙なものばかり、ただそのガランとしたケース棚そのものが、国の歴史を物語っているという人もいる。

そんな半信半疑で調べて見ると、何とその噂は本物だった。ただ場所はタリンではなく、第2の都市タルツゥ(Tartuであった。何年か前に車で遥々タリンからタルツゥまで行った事がある。一般道で200Km程はあったか、旧ソ連の田舎だけあって、街道にレストランや店もないつまらないドライブだった。着いた先は綺麗だったが、最近出来たようなガランとした町だった。ただ大学町だけあって若い人が多く、アイスクリーム売りの女性はそれは美しかった記憶がある。

さてその博物館だが、ロシアが使っていた滑走路に作った斬新的なデザインだという。それも建築家の一人が日本人と聞いて驚いた。それにしても首都でさえも何もないのに、何を陳列するのだろう?それともロシア国境に近い町だから、東西を意識して建てたのだろうか?その辺は誰かに聞いてみたいが、タダでさえも人口が10万人程の町に、一体誰が見に行くのだろうか?と思ってしまう。

Friday, 3 March 2017

トイレとキリスト

人気作家である百田尚樹さんの「雑学力」を読んでみたが、中々面白かった。朝晩の電車の中で1時間ほどで読めるのが有難い。さり気ない小話の多さに驚嘆し、流石本職の引き出しは違うと思った。それにしてもネタ集めにつぎ込む時間は大変なものだっただろうが・・・。

数あるネタの中で、トイレの失敗談には思わず車中で噴出してしまった。限界を迎えた時に運よくトイレに入れたが、ズボンのボタン数が思ったより多くて、それが中々外れずに粗相に至るという笑い話である。最近似たような経験をしたので、とても他人事ではなかった。

誰もが思い当たる”急ぎのトイレ”、爆発直前で駆け込んで間一髪セーフだった時は、思わず「神様有難うございました!」が出て来る。神様は年末年始の神社や受験以外、普段はご縁のないのが突然縋りたくなる。かの映画「ダヴィンチ・コード」でも似たようなシーンがあった。ラストの場面だが、トム・ハンクス演じる博士が、子供の頃に井戸に落ちた回想である。彼はキリストを深く信心していた訳では無かったが、思わず「神様助けて!」と叫びキリストを呼んだという。トイレとキリストを一緒にしては失礼だが、人の心には自分でも気が付かないラストリゾートがあるようだ。

Wednesday, 1 March 2017

細川庭園の膝枕

暫く前だが、文京区にある新江戸川公園の名称が、「肥後細川庭園」に改称されたと新聞に出ていた。縁あって昔から良く行っていた場所だったので、懐かしかった。

その細川庭園は、旧熊本藩の下屋敷として戦災を潜り抜け、今に残る美しい日本庭園である。庭を散歩した後、お茶を振る舞ってくれる。特に小春日和の午後に、縁側に座って静かな庭を眺めていると、武士になったような気になってくる。そして出来たら、「姫君の膝枕で現世を忘れたい・・・」という妄想も湧いてくる。殿に仕える忠誠心と謙譲語の美しい響き、「そんな時代に生まれたかった!」と、つくづく出て来る時代を間違えた気分になってくるのである。

近くには、やはり旧細川邸の和敬塾や椿山荘、かつての田中角栄邸など名所が多い。特に和敬塾は男子寮なので色々ドラマがあると言うし、早稲田大と日本女子大を繋ぐ「恋の豊坂」にもお世話になった人は多いと思う。緑が多く、文化豊かな住宅地である。