Sunday, 31 July 2016

フネドアラ城の囚人


泊まった民宿はの近くに、フネドアラ城(Hunedoara Castle)という立派な城があるというので行ってみた。15世紀にしては良く修復され、周りの掘りは今でも川が流れているので、当時を彷彿とする雰囲気があった。この城は串刺しのドラキュラ王が、若い頃幽閉された事で有名だ。当時の主は十字軍(ハンガリー)で、その後オスマンによって解放されたので、ドラキュラ王はイスラム教育を受ける。しかし心変わりをする・・・という伏線の城である。

ここで、とある囚人の言葉に心を打たれた。それは井戸の横に書かれていた説明文だった。「この井戸はオスマンの囚人3人が掘った。囚人達は主から井戸を掘れば自由の身にしてやると言われ、15年かけて28mを掘った。ところが主人は亡くなり遺言を継いだ奥さんがそれを反古にして処刑することにした。囚人は最後の願いで、石に”貴方は水を得たかも知れないが、心はない”と彫った」・・・と。

実際にその石が井戸の上に嵌め込まれていた。城の入り口には、囚人の人形が不気味に照らし出されている。生身の人の心に触れると、歳月がリアルに蘇る。

Saturday, 30 July 2016

ルーマニアの民宿

旅の7日目、漸くルーマニアに入った。突然教会の色形が変わってくる。セルビアのベオグラードを出るのに一苦労した。ヨーロッパの町を出る時は適当に走ると必ず環状線に出る。そこの標識を見て次に行けばいいのだが、ベオグラードの場合は別だった。ベオグラードには川が2つ、曲がりくねって市内を流れている。これが曲者で環状線がないため、東西に行くのは行くのだが南北は難しかった。敵から守る理想的な地形だが・・・。

ルーマニアに入りお昼をティミショアラ(Timisoara)という町で取ることにした。地下のレストランに入ると結構広く、奥の方でミサが聞こえた。そう云えばこの町に居たハンガリー人神父を追い出そうとしたことが切っ掛けで、先の革命に発展した事を思い出した。一般道を走ること130Km,夕方なので中々進まず、この日はデバ(Deva)と云う町に泊まることにした。ところがどこを見てもHotelの文字がない。ガソリンスタンドに入って地元の人に聞くと、「目の前にあるよ!」と言うではないか。見るとCasaと書いてある民宿だった。ベルを鳴らすとおばさんが出てきた。言葉は通じないが、部屋が空いているというのでホッとした。12400円と安い。「食事はどうするの?」と聞かれたので黙っていたら、「作ってあげようか?」という事になった。この日は鳥焼きとサラダ、それに甘いルーマニアワインであった。

バルカン半島の旅は安くて快適だ。ホテルでも大体46000円、民宿なら2500円から3000円程度だ。言葉こそ通じないが総じて部屋も綺麗で居心地は良かった。ただ思わぬハプニングもあった。ブカレスト近郊のレストラン兼民宿に泊まった時だ。食事をしていると、隣で大きな会場の準備が始まった。尋ねると、「これから村の結婚披露宴がある!」と言う。案の定、夜の9時過ぎて宴は最高潮に達しとても眠れる状態ではなかった。ただ幸いなことに村の儀式を見ることが出来た。最初は新郎新婦が踊り、それに続いて1~2組と続き、段々人が増えて来る。そして最後は参加者が輪になって踊る・・・。そのメロディーはとてもアラブ的で単調だった。

Friday, 29 July 2016

ニシュのドクロ塔

マケドニアからセルビアに入り、ニシュ(Nis)という古い町に泊まった。ニシュからローマ皇帝を3人も輩出していると聞き、改めてローマはこんな処まで拡がっていたんだな!と実感した。ここで凄かったのはドクロ塔であった。1809年というから比較的最近だが、オスマン帝国が攻め込んだ際に、セルビアの兵士を斬首し、約1000人の首をセメントで埋め込んだ。その塔の一部が今でも教会の中に保存されていた。以前シチリア島の田舎で、村で亡くなった人の骸骨に衣服を着せ、一室に陳列する風習も度肝を抜かれたが、こちらはバーバリズムそのものだった。

それからナチスの収容所が残っていたので訪れた。大きな建物にユダヤ人、ロマなど男女が階毎に収容されたという。ベットはなく床に藁を挽いた寒々しさがあり、部屋から亡霊の声が聞こえそうで怖かった。35千人の囚人の内、10千人が森で処刑されたと、案内のおばさんが話していた。

ニシュから北に240Km、首都のベオグラードに入った。まず軍事博物館や拷問博物館を見て廻った。流石旧ユーゴスラビアの首都だったこともあり、見るのも疲れる量だった。そして現地の人が勧められたのがニコラ・テスラ博物館である。ニコラ・テスラ(Nicola Tesla)は、先日の日経新聞にも特集されていたが、エジソンとの直流・交流論議で有名な科学者である。私は良く知らなかったが、謎めいた大変な人らしい。博物館では実際に雷のような電流を流し、子供たちが手に持った蛍光灯が明るくなる実験を行っていた。クロアチアで生まれストラスブルグやパリ、NYに居たにも拘わらず、何故か国籍はセルビアになっている。

Thursday, 28 July 2016

マケドニアのマス料理


ギリシャのテッサロニッキから只管西に、マケドニアの町オーフリッド(Ohrid)を目指した。オーフリッドは湖畔に佇む世界遺産の避暑地である。山頂にある城壁から見下ろした景色は素晴らしかった。レストランで捕れたばかりのマス料理がお勧めだというので頼んだ。Zlatendabと云う地ビールとやはり地元の白ワインと相性は抜群で美味かった。

翌日は首都のスコピエ(Skopje)に行った。町には銅像がやたらに多く、どれもペンキで悪戯書きをされ野放しになっていた。この退廃はどこから来るのだろう?不思議に思って調べてみると、段々理由が分かってきた。つまり我々が何となくロマンを感じていたのは紀元前のマケドニア王国で、今のマケドニアとは別物だと言う事だ。当時はギリシャの一部であり、ローマ時代の前のヘレニズム時代であった。一方今のマケドニアは、王国とは無関係で民族の集合体に過ぎないようだ。昔の名前はギリシャにとっては面白くない。

オーフリッドの山頂でカナダ人の青年に会った。話を聞くと親がマケドニア出身でルーツ探しに来たという。そう云えば、ブルガリアのプロヴィディフという町でも先祖がブルガリア人というオランダ人に会ったり、カザンラクで道を聞いた人はカナダ人だった。夏休みなので、多くの子孫が里帰りしていた。王国は潰れど人々は世界に散っている。

Tuesday, 26 July 2016

リラの僧院


羽田からブルガリアの首都ソフィアまでは、ドーハ経由で17時間、アラビア半島の砂漠が緑に変わるとバルカン半島である。旅はそのソフィアから始まった。ソフィアと言っても上智はSophia、こちらはSofiaと書く。町は山に囲まれ所々に寺院があるが、何かガランとした感じがする。これは一昔前までソ連の衛星国だったからだろうか。

ソ連が去ると今まで町を飾っていた社会主義のプロパガンダが一掃されたが、その歯抜け感は今でも消えない。ソ連が金目の物を持って行ったので、歴史博物館の展示品は殆どない。一方、ガイドブックに載っていない軍事博物館の方は立派だった。ソ連製のタンクやロケットが所狭しとばかり並べられているし、余程こちらの方が歴史を語っていた。

翌日は世界遺産にもなっている「リラの僧院」を訪れた。ブルガリア正教の聖地で、山道を車で1時間上りやっと辿り着けた。人の足なら何日掛かる秘境、改めて外敵を寄せ付けない世界に、それも14世紀の文化に驚いた。建物はアパート形式の寄宿舎で、各地から集まった僧侶が修行していたようだ。気が付くと午後2時を廻っていた。慌てて山を下り、走ること200Km、その日はギリシャの港町テッサロニキ(Thessaloniki)に泊まった。Kozelというギリシャビールとワイン、イカ揚げで長い一日が終わった。

Monday, 25 July 2016

バルカン紀行

何年か前に仕事仲間のHさんから、「友人の結婚式があるので、ルーマニアに行ってきます」と言われた。「へー、変わった処に行くね!」と冷やかした。そして帰ってくると、「中々綺麗な国でしたよ」と報告があった。以来、ずっとその国の事が気になっていた。そしてこの夏、思い切って旅することにした。

折角だから近くの国にも行ってみようと、ギリシャ、マケドニア、セルビア、ブルガリアも含めた5カ国を廻った。レンタカーで走ること3300Km、バルカン半島の半分を2週間かけて見て廻った。バルカン半島と言えば、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるように、物騒で危なっかしいイメージがあった。ただそんな怖さとは裏腹に、人々は至って素朴で親切だった。EUの影響だろうか、道路標識、ホテルなども紛れもなくヨーロッパの一部だった。

そして至る所に手付かずの中世が残っていた。取り分けオスマン帝国の侵入から守った城壁や街並みはロマンがあり、ロシア時代の殺伐とした風景もまた特徴的だった。(ギリシャを除き)通貨はユーロでなく、ローカル通貨である。そのせいか、物価がとても安く感じられた。そんなバルカンの国々を、これからの旅日記で紹介していきたい。


Wednesday, 6 July 2016

ヌイイ条約

Neuillyと書いてヌイイと読む。正確には、Neuilly-sur-Seineで、パリ20区の西側に位置する住宅地である。ブローニュの森に囲まれ、低層のアパート並ぶ高級地である。市内まで車で数分で行け、それでいて大きな池や子供の遊園地、乗馬場、テニスクラブなどが揃っている。

そのヌイイだが、ヌイイ条約なるものがあった。第一次大戦が終わり、ドイツ側に付いたブルガリアの領土割譲である。南ドブロージャという地域を、ロシアに付いて戦勝国となったルーマニアに譲り渡したものである。その調印を行ったのがヌイイ市であった。

勿論そんなマイナーなことは知る由もなかった。ただこの夏休みにそのブルガリアを旅することになった縁で、色々調べていたら出て来た。そしてブルガリアとルーマニアの国境は何とドナウ川であった。ドイツから始まり、黒海までの2800Kmの終わりの辺りである。バルカンの未知の世界が楽しみだ。

Monday, 4 July 2016

最後の金曜日

昔、Fさんという中東帰りの人がいた。Fさんはイスラム教ではないが、現地での体験からラマダンのこの季節、セミ断食を励行していた。1カ月の間、朝は勿論、昼も食べないが、夜だけ少し口にする。好きなジョギングも体力の温存を兼ねてやらない。その成果あって、1カ月が過ぎると随分スマートになった記憶がある。

そのラマダンだが、バングラディッシュでテロがあり、多くの日本人が犠牲になった。JICAの関係者で、一番お国の発展に貢献していた人達だった。余計熟知たるものがある。犯行グループは、ラマダンの教えに反して食事、それも豪華なレストランだったことが許せなかった。

事件はラマダン最後の金曜日に起きた。明後日の6日にはラマダンも終わる。犯人も人の子だ。複数だし、死ぬと分かって躊躇した男もいたかも知れない。そんな時間に追い込まれたのだろうか?

Saturday, 2 July 2016

恋の末路

パリの娼館の本を読んでいたら、文豪バルザックも出入りしていたと書いてあった。バルザックは以前、モンマルトルのお墓を訪れてから特別な親近感がある。今回、「谷間の百合」や「ゴリオ爺さん」などを読み返してみたが、改めて感性豊かな人だ。

その彼の最大のエピソードは、18年間に渡るハンスカ夫人と恋である。ウクライナの片田舎に住む大富豪のマダムがバルザックの本を読み、2人の文通が始まった。パリとの距離は何と2300Kmもあった。バルザックは死ぬ3年前、病を押して彼女に会いに行った。当時は馬車で10日掛かったというが、車でも1日300Kmが限度なので、凄いスピードだった

そして夫人が45歳の時に遂に2人は結婚したが、その5か月後にバルザックは息を引き取った。中公新書によると、臨終のバルザックをスケッチした画家は夫人の情夫で、臨終の際に隣の部屋でベットを共にしていたいう。著者の霧生和夫氏は、これこそバルザックの人間喜劇(La Comédie humaine)の陰惨な部分と称していた。人が信じられなくなる・・・。

Friday, 1 July 2016

A‣トフラーを偲んで

アルビン・トフラー(Alvin Toffler)の訃報があった。すっかり忘れた人だったが、70年代に「未来の衝撃(Future Shock)」、「第三の波(The Third Wave)」など、インパクトがある本を出した。


所謂、産業革命以来の変化を嗅ぎ取った人で、特にそのタイトルは衝撃的だった。今から思えば品種改良による農業生産性の向上だった。でもそれは、グリーニング・レボルーション(緑の革命)と称し、コンクリートを割って葉っぱが出て来る力強さを比喩していた。当時はベトナム戦争やオイルショックの時代だった。余計にこれから一体何が起きるのだろう?という期待があった。

今では何気なく出勤ボタンを押すが、仕事を外部に転嫁する原理を発見したり、使い捨ての供給過剰世界を早くから気が付いた。今風に言えばIoTの元祖でもあった。奥さんと大学院を捨てて溶接工になり、生産現場からスタートしたようだ。その稀有な人生が、その後の彼を作ったようだ。