Monday, 30 November 2015

赤城温泉と国定忠治

紅葉の終わるこの時期、今年も赤城の温泉に泊まった。一緒に行ったのは同僚のTさんだった。今回はTさんが宿を探してくれたが、「どうやら宿は混浴らしいですよ!」と云うではないか!

期待を込めて宿に着くと、如何にも田舎っぽいお婆さんが、「東京からお越しですか?」と出迎えてくれた 。早速温泉に飛び込む。湯舟は1つなのに、何と脱衣所は男女2つありTさんの言った通りだった。湯舟は2-3人入れる程小さく、斯くしてロマンを待ち続けた。ところが待てど暮らせど誰も入ってこない。不思議に思って女将に聞くと、何と「今日はお客さん達で貸し切りですよ!」と言われた。

赤城といえば、有名なのは「赤城山も今宵限り・・・」の国定忠治である。どんな人かと思って調べてみると、何のことはない地元のヤクザだった。強気を挫き弱きを助けるがモットーらしいが、実の処はどうだったのだろう。それにしても今でも寂しいこんな山奥で、彼は一体何をしていたのだろう?

Sunday, 29 November 2015

カール12世の葬送

ロシア機がトルコ機に撃墜された。ロシアは侵犯していないと云うが、トルコは警告のテープを公開した。ただでさえも複雑なシリア問題が、更に拗れてしまいそうだ。

それにしてもロシアとトルコの関係は長い歴史がありそうだ。1700年の初頭、この人が居なければ今のロシアもなかったと云われるピュートロ大帝は、西と南に活路を求めた。その南がウクライナだったり、時のオスマン帝国だった。一方当時のヨーロッパの大国はスウェーデンだったので、両国は何度か衝突し大北方戦争が起きた。スウェーデンの国王だったカール12世は中々行動力もあったので、一時はピュートル大帝に勝ったこともあったが、絶体絶命の時に逃げ込み亡命したのがオスマン帝国だった。彼はそこで鋭気を回復し、兵を立て直し再びロシアに挑んだが、最後は(現在のウクライナの)ポルタヴァの戦いで敗れ、その後死亡した。スウェーデンは以降小国になって現在に至っている。

ある時ストックホルム美術館で、この時の「カール12世の葬送」と称する絵画に出会った。それは歴史の節目を象徴しているかのようで、とても印象的だった。彼を助けたオスマン帝国は西洋のシンパだったのか?今回の事件を通して、改めてそんなことを思い出した。

Tuesday, 24 November 2015

パリのテロと移民文化

パリで大きなテロがあった。130人もの市民が犠牲になり、300人以上の人が負傷した。暫く前に新聞社を襲った事件があったから、又かという思いだ。

犯人はISと云うが、年毎に増す治安の悪さは、起こるべきして起こった感もある。昔はジプシーのスリや、バスク独立の過激派をマークすればよかったが、この10年で大分様子が変わった。特に今まで郊外にいた中東の移民が、日中からパリ中心部を闊歩するようになってきたからだ。

そもそもフランスは移民で成り立っている国である。アルジェリア、ベトナムの旧植民地や、ロシア、ポーランドなど政治的に迫害された貴族を受け入れた。中国人も13区にチャイナタウンがある。その大らかさはカソリック精神から来たのか、果ては豊かな土地のグルメ文化から来たのか、良く分からない。フランス人は女性的である一方で、ラ・マルセエーズの歌詞(血まみれの旗・・・武器を取って隊列を組んで進め!)に象徴される強かさがある。どう国が治まるのか、気になる。

Sunday, 22 November 2015

大阪は好きでないけど

大阪には何度行っても土地勘が残らない。誰かに「それは好きじゃないからだよ」と言われたが、そうかも知れない。街はガサツでドブ川の匂いがする。何より大阪弁は性に合わない。まるで喧嘩をしているようで、気のせいか女性は誰もが辻元清美に見えて来る。

そんな中、ある本に大阪の地名の話が載っていた面白かった。例えば大阪と梅田、どちらも同じ場所なのに併存している。どうやら大阪は官製、梅田は民製らしい。また西中島南方も2つの街をくっ付けたもの。難波もナンパから来たと思っていたが、こちらは浪速から転じたものらしい。斯くして大阪人は昔の地名を譲ろうとしないが、東京では簡単に融和し新しい地名に替えてしまう。二本の橋が日本橋、国分寺と立川が合わさって国立・・・。

「山手線が混んでいる時、入り口から動こうとしないのは大阪人だ」と、ある大阪出身者が話していた。田舎っぽい一方で、変に自信がある文化はどこから来たのだろうか?この地名の由来が縁で、少し興味が出て来た今日この頃である。

Thursday, 19 November 2015

今に生きる忍者

ある時人事部に新人が入って来た。若いのにやけに落ち着いていて、切れ目でモノに動じない雰囲気があった。何を聞いても不必要な事は決して話さない、やけに大人びた処があった。ある人がそっと、「彼は甲賀の末裔だ」と教えてくれた。祖先は忍者だったらしく、その口の固さを買われて人事部に配属されたようだ。

今週はその甲賀を訪れた。琵琶湖から草津線に揺られること20分、ただの田舎だった。それから又暫く行くと今度は伊賀に出た。知らなかったが、忍者の聖地はこんな処に固まっていた!辺りは低い山並みが連ねる至って平凡な農村である。忍者は永年百姓や商人を装って身分を隠してきたので、目立たないから生き延びたのかも知れない。親から子へ、その使命は伝承され決して口外しない掟があったようで、まるでフリーメイソンだった。

忍者屋敷もあるので、いつかゆっくり旅したい地域だった。

Wednesday, 18 November 2015

晩秋の伏見稲荷

晩秋の京都を訪れた。生憎の雨の中、今回は時間もなかったので、京都駅に近い伏見稲荷大社に行った。

伏見稲荷は外国人観光客に人気が高いという。確かに外人が多い。団体から個人までお国柄も多彩だ。そして和服の人が目立つ。近くで話し声を聴くと殆どが中国人である。沿道のお蕎麦屋さんや刃物屋など、歩いているだけでタイムスリップした気分になるのだろう。彼らの楽しそうな様子が伝わって来る。

名物は何といっても千本鳥居である。山の頂上まで鳥居が連なっているから圧巻だ。ただ良く見ると、最近寄付された新しい物が多い。鳥居をくぐると、神様に頭を撫でられるようで、謙虚な気分になる。

Saturday, 14 November 2015

Black Mary

It’s a rainy day. I had nothing to do at home. I saw a rental DVD that was minor file named “The Boy in the Stupid Pyjamas” The boy hero was a son of German officer in WWII who was a chief guard of concentration camp for Jew. A boy lived closely the camp so that was killed by accident together with Jew. A father shocked to know that he killed his son under his control.

I remember the Black Mary in Uragami Cathedral in Nagasaki which was attacked by atomic bomb in 1945. It was 2 days after Hiroshima. Nagasaki was famous for Christians as it was only area to be opened for Europe in natioanl isolation era. So many Japanese turned to be Christians but were killed by their fellow.

We used to say that the war is useless. People first find themselves when they meet the tragedy of friends.

Wednesday, 11 November 2015

オクトーバーフェストの思い出

ドイツ在住のエッセイスト、熊谷徹氏の本を読んでいたら、オクトーバーフェストの話が載っていて懐かしかった。今まで飲んだビールで一番楽しかったのが、その祭りに行った時だったからだ。

オクトーバーフェストは9月下旬にドイツのミュンヘンで行われるビール祭りである。毎年世界から600万人が訪れるが、そう簡単にはビールが飲めない仕掛けになっている。まずホテルだが、ミュンヘン市内は勿論、市内から車で1時間程のホテルは一年前からの予約で一杯だ。仮に運良く泊まれたとしても、会場のテントには予約がないとまず入れない。地元企業が席を買い占めているからだ。

それでも10年程前だったか、地元の仕事仲間に連れて行った貰ったことがあった。その時も予約はなかったが、予約客が来る朝の11時前なら飲めるということで、やっとビールに辿り付くことが出来た。バイエルン地方の山高帽子を被り、威勢のいいホルンが奏でるドイツ行進曲聴き、子供用のジェットコースターに乗って・・・それは思い出に残る一日になった。

Monday, 9 November 2015

Little Big Man

I like the movie “Little Big Man” starring Dustin Hoffman. The story starts from the reminiscence by old Indian whose name is Jack.

Jack was originally a white man but his life was coming and going between white society and Indian for 3 times each. I can’t hesitate of thinking his destiny that was checked by mysterious power. Once he was born in white family, rescued by Indian, became a soldier of General Custer and again worked with Cheyenne.

I like this kind of unforeseen circumstances and elastic life of living. I remember the word of Charles Darwin that it is not the strongest of the species that survive, nor the most intelligent but ones most responsive to change. 

Saturday, 7 November 2015

ブレルの歌

昔、とあるベルギー人夫妻をお世話したことがあった。その時、お礼にCDを頂いた。それはベルギーの国民的人気歌手、ジャック・ブレル(Jacques Brel)の定番だった。ブレルは50~60年代に活躍した人で、強ち美空ひばりや裕次郎のような存在だ。フランス語圏の歌手なので、歌詞は勿論フランス語だった。シャンソンといえば、エディット・ピアフのような戦前のクラシックしか聴いたことがなかったので、その現代風なメロディーは正直あまり親しみが持てなかった。

ところが最近家にやってきたフランス人にこれを見せると、「このCDはいいよ!」と絶賛された。中でも、“私を捨てないで(Ne Me Quitte Pas)”の歌詞が素晴らしいという。そこで改めて聴き直してみたが、やはり重苦しく思い詰めた旋律がどうもしっくり来ない。

その逆もある。バルト海の行き付けのパブに、当時自宅で良く聞いていた徳永英明のCDを持って行ったことがある。それを掛けてもらおうとカウンターの女の子に頼もうと思ったが、ちょっと思い止まった。掛けてみて「何これ?」と思われたらどうしよう、そんな気持ちが先に立った。国民的なセンチメントは微妙に違うから慎重になる。

Tuesday, 3 November 2015

Martha Argerich

I used to go Oita Prefecture where is one of the six prefectures in Kyushu island. Kyushu locates south of Japan so warm with many hot springs (Onsen). It is said Oita has the most numbers of Onsen in Japan. I didn’t know that. It is inconvenient access from airport to the city so the limousine takes 1 hour.

Oita prefecture is well famous for music festival that Martha Argerich participates every year. She is Argentine great pianist who became famous when she won Chopin Piano Competition in 1965. When I was a high school student, she came to Japan and played at Ueno concert hall. I never forget her energetic performance.

I don’t know much about her but happy to hear that she is still continuing her piano so far and loves such local Japanese region. If I had a chance to meet her, I would like to convey my heart that I was so excited and could not have slept at that night.

Monday, 2 November 2015

スポーツに沸く欧州

今日は眠い。遂々昨夜のスイス・インドアのテニスを見てしまった。バーゼルで行われたフェデラーとナダルの決勝である。バーゼルはフェデラーの故郷、お父さんと珍しくお母さんも来ていた。彼はこの大会への熱の入れ様が凄く、2006年以降優勝6回、準優勝5回と毎年ファイナルまで行っている。して今年も彼が勝ち、優勝を7に伸ばした。

同じ頃、前夜行われたワールド・ラグビーの決勝、NZと豪州の熱戦も再放送していた。こちらも好ゲームで、結果は分かっていたが改めて楽しませてもらった。フォワードのパワーとスピードは素人目に見ても違う!

ラグビーはロンドン、テニスはスイス、そしてマインツの武藤がハットトリックを決めたのが、ミュンヘンの北西アウグスブルグであった。今日からパリで、錦織も登場するBNPパリバマスターズが始まっている。欧州の冬は暗く長いが、人々は身近に質の高いスポーツで秋の夜長を楽しんでいる。

Sunday, 1 November 2015

エストニアのドイツ人

トーランドの本が面白かったので、「アドルフ・ヒットラー」を読み始めた。こちらは周知の事象が多いので新鮮さは左程ない。ただヒットラーが20歳の時、ミュンヘンでエストニア人のローゼンベルグという人物と出会う。2人は意気投合し、ローゼンベルグは後にナチの幹部になっていく。

それにしてもエストニア人との関係は何なのだろう?ふと思ったのはドイツ騎士団だ。中世からバルト海は沿岸はドイツ人が入植していたが、それを保護したのが騎士団だった。その末裔がずっと暮らして来た。ただ第二次大戦が始まる前、独ソの密約でバルト三国はロシアに売られてしまった経緯があった。残ったドイツ人は帰る場所もなく現代に至っている。

ある時、エストニアのタリンの街でおばあさんに道を聞いたことがあった。「英語は話せますか?」と聞くと、「英語は出来ないけど、ドイツ語は分かるけど・・」と言われた。ソ連崩壊後、郊外には教会が復活しつつあるが、勿論プロテスタントだったり・・・。エストニア人はブロンド髪のため、映画でドイツ軍役を演じることが多いし、本当にナチの将校もいて本になっている。エストニア人はロシア人よりドイツ人の方が好きなのは、何か訳がありそうだ。