バルトというと、日本のシンドラーこと、外交官の故杉原千畝氏を思い浮かべる。第2次大戦中、リトアニアで発給したビザで多くのユダヤ人の命を救った。それにも拘わらずリトアニアのユダヤ人犠牲者は13万人もいた。勿論バルト3国の中で最も多い。
それに対しエストニアは1,000人と数の上では少ないが、やはり迫害があった。そもそもユダヤ人の入植は、19世紀のロシア時代に兵隊としての受け入れに始まる。以来同国には4,000人ほどが住み付いたが、ナチスドイツの侵攻で多くが国外に脱出、残った人が先の数であった。つまり戦争が終わった時点で、ユダヤ人は誰もいなくなった。
原翔著「エストニア」に、Kloogaという町に慰霊碑があるというので行ってみた。今では普通の住宅地であるが、昔は強制収容所があった。ドイツのダッハウ収容所も住宅地に隣接していたので、当時としては強ち珍しい風景でなかったようだ。ホロコースト犠牲者と書いた標識に沿って森に入ると、人気はなく不気味な感じがした。暫く行くとひっそり慰霊碑が建っていた。近くにPaldiskというソ連時代の大きな軍港があり、ドイツが来る前はこの建設に従事させられた。第2のシベリアと言われ過酷だったらしい。ともあれ暗い過去がここにも眠っている。
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